麦酒で風邪薬。ラリるとはこういうことか。相撲も野球も一切がどうでもよくなる。




1998年9句(前日までの二句を含む)

September 2891998

 恋びとよ砂糖断ちたる月夜なり

                           原子公平

の句を知ったのは、もう十年以上も前のことだ。なんだか「感じがいいなア」とは思ったけれど、よくは理解できなかった。このときの作者は、おそらく医者から糖分を取ることを禁じられていたのだろう。だから、月見団子も駄目なら、もちろん酒も駄目。せっかくの美しい月夜がだいなしである。そのことを「恋びと」に訴えている。とまあ、自嘲の句と今日は読んでおきたい。そして、この「恋びと」は具体的な誰かれのことではない。作者の心のなかにのみ住む理想の女だ。幻だ。そう読まないと、句の孤独感は深まらない。「恋びと」と「砂糖」、「女」と「月」。この取り合わせは付き過ぎているけれど、中七音で実質的にすぱりと「砂糖」を切り捨てているところに、「感じがいいなア」と思わせる仕掛けがある。つまり、字面に「砂糖」はあるが、実体としてはカケラもないわけだ。病気の作者にしてみれば「殺生な、助けてくれよ」の心境だろうが、おおかたの読者は微笑さえ浮かべて読むのではあるまいか。ちなみに、今年の名月は十月五日(月)である。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


September 2791998

 赤とんぼとまつてゐるよ竿の先

                           三木露風

れっ、どこかで見たような……。そうです。三木露風の有名な童謡「赤とんぼ」の一節です。しかし、これは童謡が書かれるずっと以前、露風が十三歳のときの独立した俳句作品なのです。そういう目で読むと、やはりどこか幼い句のようにも思えます。が、もはやこの句を童謡と切り離して読むことは、誰にも不可能でしょう。純粋に俳句として読もうとしても、いつしかかの有名なメロディーが頭の中で鳴りだしてしまうからです。露風ならずとも、このように子供の頃のモチーフを大人になってから繰り返して採用した事例は多く、その意味では子供時代の発想も馬鹿になりません。ところで、童謡「赤とんぼ」の初出は大正十年(1921)八月の童謡雑誌「樫の実」です。露風、三十二歳。現在うたわれているものとは歌詞が少しちがっていて、たとえば「夕焼、小焼の、/山の空、/負はれて見たのは、/まぼろしか」というものでした。この秋、露風が後半生を過ごした三鷹市で、大展覧会が開かれます。晩年に書いた風刺詩が初公開されるそうで、楽しみです。(清水哲男)


September 2691998

 山陰のじやじやじやじや雨や秋の雨

                           京極杞陽

じ秋に降る雨でも、その土地によって風情は違う。山陰は直撃は少ないにしても、台風の影響をとても受けやすい地方だから、作者が言うように「じやじやじやじや」と音立てて降ることが多い。とくにこの時期には、陽気とまではいかなくとも、気持ちよいくらいに「じやじやじやじや」と降る。かつてのヒット曲「湯の町エレジー」(舞台は伊豆だった)のように、しっとりと「どこまで時雨れゆく秋ぞ……」などと、情緒的にはいかないのである。けれども、こういうことは土地の人ではない誰かに言われてみないとわからないことで、山陰の人は、秋の「じやじやじやじや雨」が当たり前だと思っている。そこに、作者は気がついたわけだろう。その意味からすると、世の歳時記が「秋の雨」を季語として「秋雨はどこかうそ寒く」などと書いているのは気配り不足と言おうか、昔の京都中心の季節感にとらわれすぎている。あなたがお住まいの地方の秋の雨は、どんな感じで降るのでしょうか。私の暮らす東京では、うーむ、やはり京都と変わらない「しとしと雨」でしょうかね。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)




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