数日来咽喉の調子がおかしかったが、ついに発熱。38.3度。妙な気候にやられた。




1998ソスN9ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2791998

 赤とんぼとまつてゐるよ竿の先

                           三木露風

れっ、どこかで見たような……。そうです。三木露風の有名な童謡「赤とんぼ」の一節です。しかし、これは童謡が書かれるずっと以前、露風が十三歳のときの独立した俳句作品なのです。そういう目で読むと、やはりどこか幼い句のようにも思えます。が、もはやこの句を童謡と切り離して読むことは、誰にも不可能でしょう。純粋に俳句として読もうとしても、いつしかかの有名なメロディーが頭の中で鳴りだしてしまうからです。露風ならずとも、このように子供の頃のモチーフを大人になってから繰り返して採用した事例は多く、その意味では子供時代の発想も馬鹿になりません。ところで、童謡「赤とんぼ」の初出は大正十年(1921)八月の童謡雑誌「樫の実」です。露風、三十二歳。現在うたわれているものとは歌詞が少しちがっていて、たとえば「夕焼、小焼の、/山の空、/負はれて見たのは、/まぼろしか」というものでした。この秋、露風が後半生を過ごした三鷹市で、大展覧会が開かれます。晩年に書いた風刺詩が初公開されるそうで、楽しみです。(清水哲男)


September 2691998

 山陰のじやじやじやじや雨や秋の雨

                           京極杞陽

じ秋に降る雨でも、その土地によって風情は違う。山陰は直撃は少ないにしても、台風の影響をとても受けやすい地方だから、作者が言うように「じやじやじやじや」と音立てて降ることが多い。とくにこの時期には、陽気とまではいかなくとも、気持ちよいくらいに「じやじやじやじや」と降る。かつてのヒット曲「湯の町エレジー」(舞台は伊豆だった)のように、しっとりと「どこまで時雨れゆく秋ぞ……」などと、情緒的にはいかないのである。けれども、こういうことは土地の人ではない誰かに言われてみないとわからないことで、山陰の人は、秋の「じやじやじやじや雨」が当たり前だと思っている。そこに、作者は気がついたわけだろう。その意味からすると、世の歳時記が「秋の雨」を季語として「秋雨はどこかうそ寒く」などと書いているのは気配り不足と言おうか、昔の京都中心の季節感にとらわれすぎている。あなたがお住まいの地方の秋の雨は、どんな感じで降るのでしょうか。私の暮らす東京では、うーむ、やはり京都と変わらない「しとしと雨」でしょうかね。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


September 2591998

 栗食むや若く哀しき背を曲げて

                           石田波郷

者が栗を食べている。情景としてはそれだけだが、人が物を食べる姿には、たしかにどこか哀しいものがある。高等動物だなんて言っていても、しょせんは食わなければ何もはじまらないのだ。この若者の場合はなりふりかまわずの餓鬼的な食べ方ではないのだけれど、相手が栗だから一心不乱に厚皮を剥き渋皮を取って食べている……。そこが哀しい。若いくせに背を曲げて栗に集中している姿には、やはりどこかに餓鬼道に通じるそれがあるのだ。自画像かもしれない。ところで、先日のテレビで「栗の皮剥き」グッズなるものが紹介されていた。胡桃割り器の内側に、小さな鋸の刃がついていると思えばよい。これで栗をキュッとはさむと、鋸の刃が栗の腹に剥きやすい傷をつけるという仕掛けだ。値段は、たしか780円だった。誰が使うのかは知らないが、こんな道具で栗をどんどん「食(は)まれ」たヒには哀しくもなんともないわけで、さすがの波郷の感性をもってしてもお手上げだろう。句にはなるまい。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます