ここまで来ると「人情」に傾いてくる。横浜とダイエーに優勝させてやりたいデス。




1998ソスN9ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1891998

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

                           金子兜太

珠沙華(まんじゅしゃげ)は、別名「死人花」「捨子花」などとも言われており、墓場に群生したりしていて、少なくともおめでたい花ではないようだ。見るところ生命力は強そうだ(「死人花にてひとつだにうつむかず」金谷信夫)し、花の色が毒々しくも感じられるので、可憐な花を愛する上品な趣味の人たちが嫌ってきたのかもしれない。だが、それにしては昔から皇居の壕端に盛んに咲かせているのは何故なのか、よくわからない。ところで兜太は、そんな上品な趣味とは無関係に、故郷・秩父の子供たちの生き生きとした姿を曼珠沙華の生命力になぞらえている。けっして上品ではない洟垂れ小僧らの生命力への賛歌である。敗戦後まもなくの作品だから、腹を出して遊ぶ子供たちの姿に根源的な生きる力を強く感じさせられたのだろう。ここには、まだ白面の青年俳人であった兜太の「骨太にして繊細な感受性」がうかがえる。うつむいているばかりの「青白きインテリ」に対して一線を画していた、若き日の作者の意気軒昂ぶりが合わせて読み取れて心地よい。『少年』(1955)所収。(清水哲男)


September 1791998

 ネオン赤き露の扉にふれにけり

                           木下夕爾

町の一角。ところどころに、夜遅くまでネオンのついている酒場がある。そのネオンも繁華街のように豊かな彩りではなく、たいていが赤か青一色という淋しいものだ。そんな淋しい感じの酒場に入ろうとして、作者は扉が露で濡れているのを手に感じた。このとき、もちろん赤いのはネオンであるが、句を見つめると「赤き露」とも読めるわけで、このあたりは叙情詩人の本領発揮、字面的に微妙に常識をずらしているのだ。作者はここで「赤き露」にふれたのでもあるという心持ち……。旅先でのはじめての店だろうか、それとも地元での気の進まない相手との約束の店だろうか。いずれにしても、作者は勢いよく扉を押してはいないところが、この句をわびしいものにしている。そして、このわびしさが実にいい。酒飲みには、とくに切実に句のよさがわかるはずである。今夜も、この国のあちこちの裏町で、酒場の扉にふれる人はたくさんいるだろうが、さて、その際に「赤き露」を感じる人は何人くらいいるのだろうか。『菜の花集』(1994)所収。(清水哲男)


September 1691998

 放蕩や水の上ゆく風の音

                           中村苑子

蕩(ほうとう)とは贅沢なことばだと思う。未来は放棄され、現在は徹頭徹尾、おぼれ、使い果たしてしまうことについやされる。使い果たす対象は、人生そのものだろう。絶望と背中あわせの悦楽。揺れ動く思い。そういえば蕩には水が揺れ動くという意味もあった。疲れたこころと、清冽な水。/私はこの句を清水哲男におしえられたが、清水はどういうわけか、風の音を風の色と覚えていた。句が詩人の内部でいつのまにか変形したらしい。放蕩や水の上ゆく風の色。水と風はほとんど同色となり、きらめく水面がいくぶん強調された詩的イメージににみちた句となる。では「風の音」はどうか。/放蕩と、風という清冽なものの対比に、もうひとつ、寂寥感がくわわる。眼を閉じて、耳を澄ます。聞こえるのは風の音である。(辻征夫)

[『別冊俳句・現代秀句選集』(1998)より辻征夫氏の許諾を得て転載しました・清水]




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