無敵の横綱双葉山が宗教に凝った時代もあった。勝負師の孤独の凄まじさを感じる。




1998ソスN9ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1791998

 ネオン赤き露の扉にふれにけり

                           木下夕爾

町の一角。ところどころに、夜遅くまでネオンのついている酒場がある。そのネオンも繁華街のように豊かな彩りではなく、たいていが赤か青一色という淋しいものだ。そんな淋しい感じの酒場に入ろうとして、作者は扉が露で濡れているのを手に感じた。このとき、もちろん赤いのはネオンであるが、句を見つめると「赤き露」とも読めるわけで、このあたりは叙情詩人の本領発揮、字面的に微妙に常識をずらしているのだ。作者はここで「赤き露」にふれたのでもあるという心持ち……。旅先でのはじめての店だろうか、それとも地元での気の進まない相手との約束の店だろうか。いずれにしても、作者は勢いよく扉を押してはいないところが、この句をわびしいものにしている。そして、このわびしさが実にいい。酒飲みには、とくに切実に句のよさがわかるはずである。今夜も、この国のあちこちの裏町で、酒場の扉にふれる人はたくさんいるだろうが、さて、その際に「赤き露」を感じる人は何人くらいいるのだろうか。『菜の花集』(1994)所収。(清水哲男)


September 1691998

 放蕩や水の上ゆく風の音

                           中村苑子

蕩(ほうとう)とは贅沢なことばだと思う。未来は放棄され、現在は徹頭徹尾、おぼれ、使い果たしてしまうことについやされる。使い果たす対象は、人生そのものだろう。絶望と背中あわせの悦楽。揺れ動く思い。そういえば蕩には水が揺れ動くという意味もあった。疲れたこころと、清冽な水。/私はこの句を清水哲男におしえられたが、清水はどういうわけか、風の音を風の色と覚えていた。句が詩人の内部でいつのまにか変形したらしい。放蕩や水の上ゆく風の色。水と風はほとんど同色となり、きらめく水面がいくぶん強調された詩的イメージににみちた句となる。では「風の音」はどうか。/放蕩と、風という清冽なものの対比に、もうひとつ、寂寥感がくわわる。眼を閉じて、耳を澄ます。聞こえるのは風の音である。(辻征夫)

[『別冊俳句・現代秀句選集』(1998)より辻征夫氏の許諾を得て転載しました・清水]


September 1591998

 敬老の日といふまこと淋しき日

                           中村春逸

者については、何も知らない。したがって、このときの作者が何歳なのかもわからない。ただ考えることは、この句がみずからの本音として素直に肯定できるのは、何年後くらいだろうかといったことどもである。かつては「敬老の日」ではなく「老人の日」といった。私は「老人の日」のほうが好きだ。「敬老」とは、いかにも押しつけがましい。それに「敬老」では、主体であるはずの老人が消されてしまう。若い人が老人を敬うべき日の意味となる。余計なお世話である。この句は、多分そこらあたりへのいきどおりも含んでいると読める。戦後の日本人が失った徳目は多いが、また失われてしかるべきそれもあったけれど、なかで目立つのは先達への尊敬の念である。残っているとしても、たとえば「おばあちゃんの知恵」などに矮小化されており、自分の得にならない部分は全てカットしてきた。あさましいかぎりなのだ。こんな世の中を誰が作ったのか。と言えば、それがまた、本日敬われるべき存在の老人たちが作ってきたことにも間違いはない。作者の意図とは別に、誰にとってもまことに淋しい祝日が「敬老の日」だ。平井照敏編『新歳時記』(1989)所載。(清水哲男)




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