居候あらしの屋根を這い回り。作者は忘れたが、こんな川柳を思い出した昨日今日。




1998ソスN9ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1691998

 放蕩や水の上ゆく風の音

                           中村苑子

蕩(ほうとう)とは贅沢なことばだと思う。未来は放棄され、現在は徹頭徹尾、おぼれ、使い果たしてしまうことについやされる。使い果たす対象は、人生そのものだろう。絶望と背中あわせの悦楽。揺れ動く思い。そういえば蕩には水が揺れ動くという意味もあった。疲れたこころと、清冽な水。/私はこの句を清水哲男におしえられたが、清水はどういうわけか、風の音を風の色と覚えていた。句が詩人の内部でいつのまにか変形したらしい。放蕩や水の上ゆく風の色。水と風はほとんど同色となり、きらめく水面がいくぶん強調された詩的イメージににみちた句となる。では「風の音」はどうか。/放蕩と、風という清冽なものの対比に、もうひとつ、寂寥感がくわわる。眼を閉じて、耳を澄ます。聞こえるのは風の音である。(辻征夫)

[『別冊俳句・現代秀句選集』(1998)より辻征夫氏の許諾を得て転載しました・清水]


September 1591998

 敬老の日といふまこと淋しき日

                           中村春逸

者については、何も知らない。したがって、このときの作者が何歳なのかもわからない。ただ考えることは、この句がみずからの本音として素直に肯定できるのは、何年後くらいだろうかといったことどもである。かつては「敬老の日」ではなく「老人の日」といった。私は「老人の日」のほうが好きだ。「敬老」とは、いかにも押しつけがましい。それに「敬老」では、主体であるはずの老人が消されてしまう。若い人が老人を敬うべき日の意味となる。余計なお世話である。この句は、多分そこらあたりへのいきどおりも含んでいると読める。戦後の日本人が失った徳目は多いが、また失われてしかるべきそれもあったけれど、なかで目立つのは先達への尊敬の念である。残っているとしても、たとえば「おばあちゃんの知恵」などに矮小化されており、自分の得にならない部分は全てカットしてきた。あさましいかぎりなのだ。こんな世の中を誰が作ったのか。と言えば、それがまた、本日敬われるべき存在の老人たちが作ってきたことにも間違いはない。作者の意図とは別に、誰にとってもまことに淋しい祝日が「敬老の日」だ。平井照敏編『新歳時記』(1989)所載。(清水哲男)


September 1491998

 射的屋のむすめものぐさ秋祭

                           小沢信男

屋がけの小さな射的屋。ほろ酔い気分のひやかし気分で、作者は的を射っている。だが、めでたく命中して下に落ちた景品に、なかなか店の娘が反応してくれないのだ。いちいち声をかけないと、動こうとはしない。そのうちに、だんだん腹が立ってくる。まだタマは残っているけれど、もう止めたっ。そんな情景だろうか。しかし、娘に立腹はしてみたものの、射的屋を離れて祭りの人込みにまぎれてみれば、目くじらを立てるほどのことでもなかったと、作者は苦笑しているようだ。あの娘だって、旅から旅の生活で疲れているんだろう。そう思えば、娘のやる気のないものぐさな態度も、許せるような気がしてくる。この秋の祭り情緒のひとつとして、やがては作者の胸のうちに溶けていってしまう。夏祭での出来事だと、気持ちはとてもこんな具合には収まるまい。かくのごとくに、秋は人の心をやさしくさせる。この句を読んで、子供のときの村祭りを思い出した。特別にもらった十円ほどの小遣いを握り締めて、つまらない小物ばかりを買っていた。射的屋もものぐさ娘も、ただ仰ぎ見るだけの存在だった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)




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