空に真っ赤な雲の色、玻璃に真っ赤な酒の色。白秋の詩。夕陽が綺麗になってきた。




1998ソスN9ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1491998

 射的屋のむすめものぐさ秋祭

                           小沢信男

屋がけの小さな射的屋。ほろ酔い気分のひやかし気分で、作者は的を射っている。だが、めでたく命中して下に落ちた景品に、なかなか店の娘が反応してくれないのだ。いちいち声をかけないと、動こうとはしない。そのうちに、だんだん腹が立ってくる。まだタマは残っているけれど、もう止めたっ。そんな情景だろうか。しかし、娘に立腹はしてみたものの、射的屋を離れて祭りの人込みにまぎれてみれば、目くじらを立てるほどのことでもなかったと、作者は苦笑しているようだ。あの娘だって、旅から旅の生活で疲れているんだろう。そう思えば、娘のやる気のないものぐさな態度も、許せるような気がしてくる。この秋の祭り情緒のひとつとして、やがては作者の胸のうちに溶けていってしまう。夏祭での出来事だと、気持ちはとてもこんな具合には収まるまい。かくのごとくに、秋は人の心をやさしくさせる。この句を読んで、子供のときの村祭りを思い出した。特別にもらった十円ほどの小遣いを握り締めて、つまらない小物ばかりを買っていた。射的屋もものぐさ娘も、ただ仰ぎ見るだけの存在だった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


September 1391998

 観覧車より東京の竹の春

                           黛まどか

は秋になると青々と枝葉を茂らせる。この状態が「竹の春」。作者によれば、この観覧車は向丘遊園のそれだそうだが、そこからこのように竹林が見えるとなると、一度行ってみたい気になった。最近の東京では、郊外でもなかなか竹林にはお目にかかれない。竹は心地よい。元来が草の仲間だから、木には感じられない清潔な雰囲気がある。木には欲があるが、竹にはない。観覧車から見える竹林には、おそらく草原ないしは草叢に似た趣きがあるだろう。作者の責任ではないにしても、せっかくの「東京の竹の春」なのだから、こんなに簡単に突き放すのではなくて、もう少しどのように見えたかを伝えてほしかった。「竹の春」という季語に、よりかかり過ぎているのが残念だ。惜しい句だ。ところで、世界でいちばん有名な観覧車といえば、映画『第三の男』に出てきたウィーンの遊園地の大観覧車だろう。今でもあるそうだが、実際に見たことはない。男同士で観覧車に乗るという発想の奇抜さもさることながら、あの観覧車自体が持っている哀しげな表情を気に入っている。映画のストーリーとは無関係に、ウィーンの観覧車は、どんな遊園地にもつきまとう「宴の哀しみ」を象徴しているように思える。あれに乗ると、何が見えるのだろうか。誰か、俳句に詠んでいないだろうか。『恋する俳句』(1998)所収。(清水哲男)


September 1291998

 日の砂州の獣骨白し秋の川

                           藤沢周平

年になって藤沢周平の俳句がまとまって発見された(「小説新潮」1998年9月号・藤沢周平特集参照)。作者がまだ結核で療養中の昭和二十年代の作品で、「のびどめ」という病院の療養仲間の俳句会の機関誌に「留次」の俳号(この俳号もいかにも彼らしい)で載せた67句である。もとより作家になる習作以前の句であるが、やはりここにも後年の人生の機微と人の世の哀歓をたくみにとらえた時代物作家の眼の光りを窺うことができる。これはおそらく「秋の川」のテーマで作ったみのらしく、「天の藍流して秋の川鳴れり」「雲映じその雲紅し秋の川」「秋の川芥も石もあらわれて」の句が並んで発表されている。周平句は、俳誌「海坂」(ここから、かの海坂藩の名が生まれた)に発表した句を含めて、生涯105句あるという。藤沢周平と俳句との関係は、意外と深いものかもしれない。(井川博年)




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