長嶋監督続投表明。またまた来季の巨人に優勝はないだろう。ま、賑やかでいいか。




1998ソスN9ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1391998

 観覧車より東京の竹の春

                           黛まどか

は秋になると青々と枝葉を茂らせる。この状態が「竹の春」。作者によれば、この観覧車は向丘遊園のそれだそうだが、そこからこのように竹林が見えるとなると、一度行ってみたい気になった。最近の東京では、郊外でもなかなか竹林にはお目にかかれない。竹は心地よい。元来が草の仲間だから、木には感じられない清潔な雰囲気がある。木には欲があるが、竹にはない。観覧車から見える竹林には、おそらく草原ないしは草叢に似た趣きがあるだろう。作者の責任ではないにしても、せっかくの「東京の竹の春」なのだから、こんなに簡単に突き放すのではなくて、もう少しどのように見えたかを伝えてほしかった。「竹の春」という季語に、よりかかり過ぎているのが残念だ。惜しい句だ。ところで、世界でいちばん有名な観覧車といえば、映画『第三の男』に出てきたウィーンの遊園地の大観覧車だろう。今でもあるそうだが、実際に見たことはない。男同士で観覧車に乗るという発想の奇抜さもさることながら、あの観覧車自体が持っている哀しげな表情を気に入っている。映画のストーリーとは無関係に、ウィーンの観覧車は、どんな遊園地にもつきまとう「宴の哀しみ」を象徴しているように思える。あれに乗ると、何が見えるのだろうか。誰か、俳句に詠んでいないだろうか。『恋する俳句』(1998)所収。(清水哲男)


September 1291998

 日の砂州の獣骨白し秋の川

                           藤沢周平

年になって藤沢周平の俳句がまとまって発見された(「小説新潮」1998年9月号・藤沢周平特集参照)。作者がまだ結核で療養中の昭和二十年代の作品で、「のびどめ」という病院の療養仲間の俳句会の機関誌に「留次」の俳号(この俳号もいかにも彼らしい)で載せた67句である。もとより作家になる習作以前の句であるが、やはりここにも後年の人生の機微と人の世の哀歓をたくみにとらえた時代物作家の眼の光りを窺うことができる。これはおそらく「秋の川」のテーマで作ったみのらしく、「天の藍流して秋の川鳴れり」「雲映じその雲紅し秋の川」「秋の川芥も石もあらわれて」の句が並んで発表されている。周平句は、俳誌「海坂」(ここから、かの海坂藩の名が生まれた)に発表した句を含めて、生涯105句あるという。藤沢周平と俳句との関係は、意外と深いものかもしれない。(井川博年)


September 1191998

 新涼の画を見る女画の女

                           福田蓼汀

アリの一句。会場の様子を画として見ている。画を見るのに少し疲れた作者は、長椅子にでも腰掛けているのだろう。会場は閑散としていると思われる。と、そこに妙齢の美女が現れた。どんな画の前でたたずむのかと好奇の目を光らせていると、彼女は女性が描かれている画の前で足を止めた。裸婦像かもしれない。そこで彼女の視線を追って、作者はもう一度その画を眺めやり、また件の女性に目を戻したというわけだ。したがってこの場合の新涼は、天然自然のそれというよりも、むしろ女が女の画をまっすぐに見つめている爽やかな雰囲気を表現している。最近はたまにしか展覧会に出かけないが、他人がどんな画に興味を示すのかは、かなり気になる。その他人が美女となれば、なおさらだ。わかっているのか、わかっていないのか。あるいは、お前なんかにわかってたまるかなどと、意地悪い目で会場の客を見ていたりする。観賞眼に自信があるわけではない。曲がりなりにも美術記者として社会に出た経験から、とくに他人の趣味嗜好が気になるだけである。若き日の職業柄からとはいえ、まことにもって因果なことである。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます