今日ミサイル再発射説。それにしては政府は呑気だ。呑気の根拠を国民に説明せよ。




1998ソスN9ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0591998

 朝雲の故なくかなし百日紅

                           水原秋桜子

秋くらいまでは盛んに咲きつづける百日紅(さるすべり)。生命力に溢れたその姿は意気軒昂という感じで圧倒されもするが、だからこそ逆に、ときに見る者の心の弱さを暴き出すようにも働く。朝の雲を「故なくかなし」と見つめることになったりする。この句は、辻井喬『故なくかなし』(新潮社・1996)で知った。この本の帯に「俳句小説」と書かれているように、辻井さんが諸家の俳句作品に触発されて書いた十八の短編が収められている。秋桜子のこの句にヒントを得た作品は、表題作に掲げられているだけあって、なかなかに味わい深い。小説については直接本を読んでほしいが、もう一度ここで掲句を眺めてみると、なるほど、どこかに物語を発生させる装置が仕込まれているような気がしてくる。形式的にはまぎれもない俳句なのだけれど、むしろ短歌の世界を思わせる作品だ。秋桜子には、かなりこうした劇的句とでも言える句が多い。句のなかで何かを言い切るのではなく、多く感情的な筋道を示すことで、後の成り行きは読者にゆだねるという方法だ。正直に言って私はこの方法に賛同できないのだが、いまの若い人の俳句につづいている方法としては、現役バリバリのそれである。(清水哲男)


September 0491998

 近所に遠慮することないゾ秋刀魚焼く

                           井川博年

サイトでも、評者としておなじみの詩人・井川博年の近作。なにしろ彼は、高校時代に松江図書館で『虚子全集』を読破してしまったというほどの俳句好きだから、俳句についての知識は抜群だ。私も参加している「余白句会」(小沢信男宗匠)の、いわば生き字引的存在である。しかし、あまりにも知り過ぎているということは、クリエーターとしては困ることも多く、とくに五七五と短い詩の世界では往生するのではあるまいか。つまり、どんな発想をもってしても、自分の知っている誰かの句に似てしまったりするわけで、密度の高い知識の隙間を見つけるのは容易ではない。だから、どうしてもこうした破調に傾きやすい。この破調にしても、同種の先例がないわけではなく、あれやこれやと思案の末に、今度は中身の破調にとあいなっていく。かくして井川博年は、美味い秋刀魚を食いたい一心のオタケビをあげて「現代風雅」をむさぼろうとしたのである。窓を開けて盛大に秋刀魚を焼くと、消防車が飛んできかねない現代の東京だ。そんな環境への怒りが、極私的に内向的に炸裂している。いろいろな意味で、私にとっては面白くも馬鹿馬鹿しくもほろ苦いのだが、しかし愛すべき一句ではある。「俳句朝日」(1998年9月号)所載。(清水哲男)


September 0391998

 草刈の籃の中より野菊かな

                           夏目漱石

は「かご」。草を刈ってきた人が、籃を乱暴にひっくり返すと、そこに可憐な薄紫の野菊が混ざっていた。よくあることであり、漱石も「何という不風流なことを……」などとは露ほども思っていない。そこが、よい。主として家畜の飼料にするための草刈りは、早朝の重労働だった。野菊であろうが桔梗であろうが、そんなものを他の草と選り分けている余裕はないのである。美も醜もない。美醜だの可憐だのという認識は、もちろん草を刈る人に日常的にはあるのだけれど、こと労働の現場では美醜を脇に置いた姿勢にならざるを得ないのだ。だから、ここで漱石は風流を言っているのではなくて、ほとんど「おや、まあ」という心持ちで、ちょこっと野菊に挨拶をしている。もう野菊の咲く季節になったのかと、思わず澄んだ空を見上げたかもしれない。漱石は、血まなこで俳句に立ち向かっていた子規や虚子などには、文学的にかなりの距離を置いていた。男子一生の仕事ではないと思っていた。よくも悪くも、その距離がそのまま、はからずもこのような句ににじみ出ているような気がする。『漱石句集』所収。(清水哲男)




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