北朝鮮情報には強いと思っていた「産経新聞」が今回は芳しくない。他紙はもっと。




1998ソスN9ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0291998

 風の無き時もコスモスなりしかな

                           粟津松彩子

味ではあるが、これぞプロの句。「ホトトギス」の伝統ここにありとばかりに、凛としている。コスモスは群生するので、かたまって絶えず風に揺れている印象が強いが、風がなくなればもちろん動きははたと止まる。その様子をスケッチしたにすぎないのだけれど、これを言わでもがなの中身と受け取ると、俳句的表現の大半の所以がわからなくなる。この句に、意味などはない。あるのは、自然をあるがままの姿で写生しようとている作者の姿勢だ。無私の眼が、どれほど徹底しきれるものかというそれである。近代的自我などというフウチャカと揺れる目つきを峻拒したところに、子規以来の写生の精神が生きている。かといって「俳句道」だとか「俳句禅」だとかとシャカリキになるのではなく、ここで作者の肩の力は完全に抜けているのであって、そこが他の文芸には真似のできない「味」を産み出している。最近は人事句が大流行で、この種の上質な写生句はなかなか見られない。が、俳句表現の必然とは何かと考えるときに、今でもこの方法は無視できない重さを持ってくる。まあ、そんな理屈はさておいて、一読「上手いもんだなあ」と言うしかない句である。「俳句文芸」(1997年12月号)所載。(清水哲男)


September 0191998

 電線のからみし足や震災忌

                           京極杞陽

れて落ちてきた電線が足にからまるという生々しい恐怖感。関東大震災から実に三十五年後(1958)にして、作者はようやくこのように詠むことができた。この句については「ホトトギス」同人の山田弘子の解説がある(京極杞陽句集『六の花』・ふらんす堂・1997)ので、以下、それに譲る。「大正一二年九月一日関東地方を襲った大震災で、京極高光(後の杞陽)の家屋敷は倒壊焼失し、只一人の姉を除き祖母、父母、弟妹ら家族の全員を喪うという悲運に遭遇した。学習院中等科三年、一五歳の時であった。火災に巻き込まれつつ逃げのび九死に一生を得た高光は、後日焼け落ちた玄関に正座のままこと切れていた老家僕の亡骸と対面したという。多感な青春時代に遭遇したこの悲運は、杞陽の人生観・死生観に生涯にわたり大きく影響を及ぼして行った筈である。杞陽を知る上で関東大震災は重要なキーワードの一つと言うことが出来る」。もとより杞陽にかぎらず、久保田万太郎など、関東大震災は多くの人々の生涯にわたる深い傷となって残った。そして阪神淡路大震災の傷跡は、いまに生々しい。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


August 3181998

 夜明路地落書のごと生きのこり

                           佐藤鬼房

季の句だが、雰囲気はどこか晩夏を思わせる。徹夜の仕事明けだろうか。自宅近くの路地まで戻ってくると、道にはどこかの子供が描いた落書きが白く残っている。たぶん稚拙な「人間」の絵だったろうが、このとき五十代の俳人は、思わず足を止めて見入ってしまったのである。そして、まさにこの落書きの「人間」のように、消されることもなく生き残ってきた自分の人生を、何か不思議な出来事のように思ったというわけだ。作者には戦時中の捕虜体験があって多くの戦友とも死に別れ(「夕焼に遺書のつたなく死ににけり」などの句がある)、自身病弱の身でもあったので、とりわけ「生きのこり」の感慨には強いものがある。落書きをした子供の生命力と作者のそれとの対比も暗黙のうちに語られていて、印象深い句だ。晩夏を思わせるのは、この対比の妙からかもしれない。最近の落書きの主流は、道にローセキで描くのではなく、道端の塀にスプレーで吹きつけるそれになってしまった。小さな子供たちに代わって、いわゆる暴走族が落書きを担当(笑)しているのも面白い。つまり、人の遊べる道は無くなったということだ。それをいちばん知っているのが、勝手気ままにオートバイを乗り回したい連中だろう。彼らにとっては道端の塀も、本来は道でなければならないのである。『地楡』(1975)所収。(清水哲男)




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