ミサイルが日本列島を飛び越えた。皆わりに平気らしいけど、空襲世代には恐怖だ。




1998ソスN9ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0191998

 電線のからみし足や震災忌

                           京極杞陽

れて落ちてきた電線が足にからまるという生々しい恐怖感。関東大震災から実に三十五年後(1958)にして、作者はようやくこのように詠むことができた。この句については「ホトトギス」同人の山田弘子の解説がある(京極杞陽句集『六の花』・ふらんす堂・1997)ので、以下、それに譲る。「大正一二年九月一日関東地方を襲った大震災で、京極高光(後の杞陽)の家屋敷は倒壊焼失し、只一人の姉を除き祖母、父母、弟妹ら家族の全員を喪うという悲運に遭遇した。学習院中等科三年、一五歳の時であった。火災に巻き込まれつつ逃げのび九死に一生を得た高光は、後日焼け落ちた玄関に正座のままこと切れていた老家僕の亡骸と対面したという。多感な青春時代に遭遇したこの悲運は、杞陽の人生観・死生観に生涯にわたり大きく影響を及ぼして行った筈である。杞陽を知る上で関東大震災は重要なキーワードの一つと言うことが出来る」。もとより杞陽にかぎらず、久保田万太郎など、関東大震災は多くの人々の生涯にわたる深い傷となって残った。そして阪神淡路大震災の傷跡は、いまに生々しい。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


August 3181998

 夜明路地落書のごと生きのこり

                           佐藤鬼房

季の句だが、雰囲気はどこか晩夏を思わせる。徹夜の仕事明けだろうか。自宅近くの路地まで戻ってくると、道にはどこかの子供が描いた落書きが白く残っている。たぶん稚拙な「人間」の絵だったろうが、このとき五十代の俳人は、思わず足を止めて見入ってしまったのである。そして、まさにこの落書きの「人間」のように、消されることもなく生き残ってきた自分の人生を、何か不思議な出来事のように思ったというわけだ。作者には戦時中の捕虜体験があって多くの戦友とも死に別れ(「夕焼に遺書のつたなく死ににけり」などの句がある)、自身病弱の身でもあったので、とりわけ「生きのこり」の感慨には強いものがある。落書きをした子供の生命力と作者のそれとの対比も暗黙のうちに語られていて、印象深い句だ。晩夏を思わせるのは、この対比の妙からかもしれない。最近の落書きの主流は、道にローセキで描くのではなく、道端の塀にスプレーで吹きつけるそれになってしまった。小さな子供たちに代わって、いわゆる暴走族が落書きを担当(笑)しているのも面白い。つまり、人の遊べる道は無くなったということだ。それをいちばん知っているのが、勝手気ままにオートバイを乗り回したい連中だろう。彼らにとっては道端の塀も、本来は道でなければならないのである。『地楡』(1975)所収。(清水哲男)


August 3081998

 米洗ふ母とある子や蚊喰鳥

                           中村汀女

前の句。主婦俳句の第一人者といわれた汀女の句は、それがそのまま大正から昭和に至る庶民の生活記録になっていて興味深い。この句などを読むと、母親と子供との日常的なありようも、ずいぶん変わってきたことがわかる。表の井戸端で夕飯の支度をするという環境の変化もさることながら、このように、昔の子供はいつも母親の後を追っていたものだということがわかる。いまの子の多くは、母親がキッチンに立っている間は、テレビでも見ているのではなかろうか。いや、見せられているのではないだろうか。それに昔の東京の住宅地でも、このように蚊喰鳥(かくいどり・蝙蝠のこと)はごく普通に飛んでいて、作者の意識としては、この季節の夕景をごく普通に描写しただけにすぎないのである。つまり、句が作られた当時においては、何も特別な中身はなかったのであり、ごく平凡な月並み俳句のひとつであった。子供とともにある母親の安らぎが、句の言いたいことの全てである。それが半世紀以上も経てくると、「ほお」と好奇の目を呼び寄せたりするのだから面白い。さりげないスナップ写真が、後に貴重なデータになったりするのと同じことだ。『汀女句集』所収。(清水哲男)




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