八月尽。「週刊読書人」に田村隆一さんへの追悼文。なんだか侘びしい夏だったナ。




1998ソスN8ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 3181998

 夜明路地落書のごと生きのこり

                           佐藤鬼房

季の句だが、雰囲気はどこか晩夏を思わせる。徹夜の仕事明けだろうか。自宅近くの路地まで戻ってくると、道にはどこかの子供が描いた落書きが白く残っている。たぶん稚拙な「人間」の絵だったろうが、このとき五十代の俳人は、思わず足を止めて見入ってしまったのである。そして、まさにこの落書きの「人間」のように、消されることもなく生き残ってきた自分の人生を、何か不思議な出来事のように思ったというわけだ。作者には戦時中の捕虜体験があって多くの戦友とも死に別れ(「夕焼に遺書のつたなく死ににけり」などの句がある)、自身病弱の身でもあったので、とりわけ「生きのこり」の感慨には強いものがある。落書きをした子供の生命力と作者のそれとの対比も暗黙のうちに語られていて、印象深い句だ。晩夏を思わせるのは、この対比の妙からかもしれない。最近の落書きの主流は、道にローセキで描くのではなく、道端の塀にスプレーで吹きつけるそれになってしまった。小さな子供たちに代わって、いわゆる暴走族が落書きを担当(笑)しているのも面白い。つまり、人の遊べる道は無くなったということだ。それをいちばん知っているのが、勝手気ままにオートバイを乗り回したい連中だろう。彼らにとっては道端の塀も、本来は道でなければならないのである。『地楡』(1975)所収。(清水哲男)


August 3081998

 米洗ふ母とある子や蚊喰鳥

                           中村汀女

前の句。主婦俳句の第一人者といわれた汀女の句は、それがそのまま大正から昭和に至る庶民の生活記録になっていて興味深い。この句などを読むと、母親と子供との日常的なありようも、ずいぶん変わってきたことがわかる。表の井戸端で夕飯の支度をするという環境の変化もさることながら、このように、昔の子供はいつも母親の後を追っていたものだということがわかる。いまの子の多くは、母親がキッチンに立っている間は、テレビでも見ているのではなかろうか。いや、見せられているのではないだろうか。それに昔の東京の住宅地でも、このように蚊喰鳥(かくいどり・蝙蝠のこと)はごく普通に飛んでいて、作者の意識としては、この季節の夕景をごく普通に描写しただけにすぎないのである。つまり、句が作られた当時においては、何も特別な中身はなかったのであり、ごく平凡な月並み俳句のひとつであった。子供とともにある母親の安らぎが、句の言いたいことの全てである。それが半世紀以上も経てくると、「ほお」と好奇の目を呼び寄せたりするのだから面白い。さりげないスナップ写真が、後に貴重なデータになったりするのと同じことだ。『汀女句集』所収。(清水哲男)


August 2981998

 稲妻や将棋盤には桂馬飛ぶ

                           吉屋信子

台将棋。涼みがてら、表で将棋を指している。作者は観戦しているのだろう。なかなか白熱した戦いだ。と、遠くの空に雷光が走り、同時に盤上では勢いよく桂馬が飛んだ。「さあ、勝負」と気合いの入ったところだ。見ている側にも力が入る。風雲急を告げるの図。将棋の駒の動かし方を知らないとわからない句だが、目のつけどころが芝居がかっていて面白い。吉屋信子の大衆小説家としての目が生きた句だ。俳句のプロだと、ちょっと気恥ずかしくて、ここまでは表現できないのではないだろうか。素人の勝利である。こういうことは、時々起きる。ヘボながら、私も将棋好きだ。小学生の頃から、村の若い衆と指していた。学校の遊び時間でも、指した記憶がある。他に娯楽がなかったせいで、私の世代はみな駒の動かし方くらいは知っているのだ。だから「坂田三吉端歩(はしふ)を突いた、銀が泣いてる……」という歌も好きなのであり、「桂馬の高飛び歩の餌食」という一種の箴言をいまだに使ったりする。使おうとして「待てよ、いまの若者に通用するかな」などと、ふとためらったりもする。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)




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