田村隆一さんが亡くなったと今朝井川博年より電話。8時のニュースで見たそうだ。




1998ソスN8ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2781998

 夕立を壁と見上げて軒宿り

                           上野 泰

わかに空が暗くなり、「来るぞ」と思う間もなくザーッと降ってきた。とりあえず、どこでもいいから適当な家の軒下にかけこんで、夕立をやり過ごす。猛烈な雨は、句のように、滝というよりも壁のようである。でも、夕立はすぐに止むだろうと思うから、暗い気分にはならない。物凄い降りを楽しむ余裕がある。もっと激しく降れと思ったりする。道を急いでいる人以外には、自然が与えてくれた時ならぬ娯楽だと言ってもよいだろう。そんな軒先に数人の人が溜まると、どういうわけか、誰かが「夕立評論家」になるのも楽しい。「まあ、いっときの辛抱ですよ」「ほら、西の空が明るくなってきた。もうすぐ止みますからね」などと、誰も頼んだわけじゃないのに、解説してくれる人が出てくる。そのうちに、見ず知らずのその人に相槌を打つ人も出はじめて、ほぼ全員の気分がなごみはじめたところで夕立は終わりになる。最近は軒先のある家がなくなってきたから、こうした夕立の楽しさもない。楽しさがないどころか、運が悪いと、左右に家屋はあってもずぶぬれの憂き目にあってしまう。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)


August 2681998

 西日さしそこ動かせぬものばかり

                           波多野爽波

いに納得。よくわかります。晩夏から初秋にかけての西日は、太陽の位置が下がってくることもあって強烈だ。眩しさもさることながら、暑さも暑しで、たまらない。そんなときに気になるのは、置かれている家具類である。カーテンはとっくに変色しているし、タンスや本箱はバリバリに乾いてしまう。毎夏、どうにかしなければと思うのだけれど、いくら思案をしても「そこ動かせぬものばかり」というわけで、結局は思案だけに終わってしまう。ちょっびりと腹立たしくもあり、またちょっびりと笑えてもくる。瑣末な感覚のスケッチにすぎないといえばそれまでだが、こうしたトリビアルな感覚を読者全体に納得させうるところが、この短詩型の特色だと言えよう。というよりも、まずは納得を前提にして作句するというのが、ほとんどの俳人の姿勢である。正岡子規が提唱した「印象明瞭の句」とはそういうものであるし、俳句はまず読者の漠然たる常識に依拠しつつ、その常識をより明確化することで完成する。俳句に遊ぶ現代詩人の多くの作品が駄目なのは、この「常識」をわきまえていないからである。そしてもうひとつその前に、俳句を一段軽く見る「非常識」が大いに災いしている。(清水哲男)


August 2581998

 東京の膝に女とねこじゃらし

                           坪内稔典

味不明なれど色気あり。それは読者が「膝」と「女」と「ねこじゃらし」を、一度に頭のなかに出現させるからである。つまり「東京の女の膝にねこじゃらし」とでも、一瞬読もうとする力が働くからなのだ。どこにもそんなふうには書いてないのに、意味を求めて文字を読む習癖がそうさせるのである。そこらあたりの習癖を熟知している作者は、こう書いた後でペロリと舌を出したかもしれない。作者は常々「わかりやすい言葉で気軽に口ずさめる俳句」を主張している。そのことからすれば、この句はまさにそのとおりの作品であり、故意に意味不明に仕上げた成果がよく出ていると思う。さらには舞台を東京にセットしたところも、ニクい配慮だ。べつに東京でなくても、作者の住む大阪だって、他の地名だって構わないようなものだが、東京がもっとも野の草とは縁遠い地方であることが計算されている。東京でないと、これだけの色気は出てこない。ヒマな人は、いろいろな地名と入れ替えてみてほしい。楽しい句だ。『ぽぽのあたり』(1998)所収。(清水哲男)




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