核を持つロシアが世界のお荷物となる。ソビエト無血解体時の無思想支援のツケだ。




1998ソスN8ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2581998

 東京の膝に女とねこじゃらし

                           坪内稔典

味不明なれど色気あり。それは読者が「膝」と「女」と「ねこじゃらし」を、一度に頭のなかに出現させるからである。つまり「東京の女の膝にねこじゃらし」とでも、一瞬読もうとする力が働くからなのだ。どこにもそんなふうには書いてないのに、意味を求めて文字を読む習癖がそうさせるのである。そこらあたりの習癖を熟知している作者は、こう書いた後でペロリと舌を出したかもしれない。作者は常々「わかりやすい言葉で気軽に口ずさめる俳句」を主張している。そのことからすれば、この句はまさにそのとおりの作品であり、故意に意味不明に仕上げた成果がよく出ていると思う。さらには舞台を東京にセットしたところも、ニクい配慮だ。べつに東京でなくても、作者の住む大阪だって、他の地名だって構わないようなものだが、東京がもっとも野の草とは縁遠い地方であることが計算されている。東京でないと、これだけの色気は出てこない。ヒマな人は、いろいろな地名と入れ替えてみてほしい。楽しい句だ。『ぽぽのあたり』(1998)所収。(清水哲男)


August 2481998

 秋風に売られて茶碗括らるゝ

                           飴山 實

の箱に収められるような立派な茶碗ではない。小さな瀬戸物屋の店先で、うっすらと埃をかぶっている二束三文の安茶碗だ。それを何個も買う人がいて、店の主人が持ち帰りやすいようにと細い縄で括(くく)っている。茶碗の触れ合う音に秋の風。ちょっと侘びしげな光景である。この句から受けるセンチメンタルな気分は、茶碗が日常生活の道具だからだろう。こうして括られ売られていく茶碗は、どんな家庭のどんな食卓に乗せられるのか。作者の頭を、ちらりとそんな想像がかすめたにちがいない。生活のための道具には感覚的に生臭いところがあって、あまり想像力を働かせたくないときがある。この場合もそうであり、心地好い秋風のおかげで、作者は生臭さから免れているというわけだ。句の主語を茶碗にしぼったのも、同じ理由によるものだろう。話は飛ぶが、横山隆一の人気漫画『フクちゃん』に出てきた友達のコンちゃんやキヨちゃんの家は、たしか瀬戸物屋である。アメリカ漫画のチャーリー・ブラウンの家が小さな床屋であるように、小さな瀬戸物屋も、昔の日本ではどこにでもある格別に珍しくはない店のひとつだった。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


August 2381998

 雲の峰みるみるしらがのおじいさん

                           小沢信男

宮城の乙姫様から土産にもらった玉手箱を開けてみたら、白い煙がたちのぼり「みるみるしらがのおじいさん」になってしまったという浦島太郎。真っ白い雲の峰を仰ぎながら、作者はふと浦島伝説を思い出している。このとき、雲の峰は玉手箱からの白煙であり、作者は「しらがのおじいさん」である。なんともスケールの大きい句であるが、大きいだけに、どこか物悲しい味わいがある。ペーソスという外国語を当て嵌めるほうが、ぴったりきそうな句境と言うべきか。かといって、作者は自分が「みるみる」老いたことを嘆いているのではない。人生は夢の如しと、悟っているわけでもない。気がついてみたら「しらがのおじいさん」になっていたという、どちらかといえば自分でも得心のいかない不思議な気分を、このような表現に託したのだと思う。浦島太郎もよほどびっくりしただろうが、自然に年令を重ねているつもりの普通の人も、たまにはこのように「みるみる」歳を取ったという実感に襲われることがあるようだ。私も、ようやくそんなことがわかりかける年令にさしかかってきた。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)




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