横浜高校優勝。都会っ子にしては珍しくひ弱さが感じられなかった。おめでとう。




1998ソスN8ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2381998

 雲の峰みるみるしらがのおじいさん

                           小沢信男

宮城の乙姫様から土産にもらった玉手箱を開けてみたら、白い煙がたちのぼり「みるみるしらがのおじいさん」になってしまったという浦島太郎。真っ白い雲の峰を仰ぎながら、作者はふと浦島伝説を思い出している。このとき、雲の峰は玉手箱からの白煙であり、作者は「しらがのおじいさん」である。なんともスケールの大きい句であるが、大きいだけに、どこか物悲しい味わいがある。ペーソスという外国語を当て嵌めるほうが、ぴったりきそうな句境と言うべきか。かといって、作者は自分が「みるみる」老いたことを嘆いているのではない。人生は夢の如しと、悟っているわけでもない。気がついてみたら「しらがのおじいさん」になっていたという、どちらかといえば自分でも得心のいかない不思議な気分を、このような表現に託したのだと思う。浦島太郎もよほどびっくりしただろうが、自然に年令を重ねているつもりの普通の人も、たまにはこのように「みるみる」歳を取ったという実感に襲われることがあるようだ。私も、ようやくそんなことがわかりかける年令にさしかかってきた。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


August 2281998

 炎天にテントを組むは死にたるか

                           藤田湘子

所の集会所の庭でもあろうか。炎天下、あわただしくテントが組まれている様子から察して、どうやら葬儀の準備のようだ。それだけの中身の句である。しかし、気になるのは「死にたるか」という言葉使いだ。解釈は二つに分かれる。ひとつは「とうとう亡くなったのか」という意味で、町内の顔見知り程度の長患いの人の死を指している場合。もうひとつは素朴に疑問符的に使われていて、誰かが「亡くなったのだろうか」という意味の場合。いずれであるかは作者にしかわからないことだが、いずれであるにせよ、この「死にたるか」という言葉はずいぶんと直截な物言いだ。ストレートに過ぎる。あるいは、死者を必要以上に突き放した言い方だ。なぜだろうか。私の読み方では、炎天下という条件が、作者にこのいささか乱暴な言葉を吐かせたのだと思う。極暑のなかのぼおっとした頭の状態で物事を判断したり表現したりする、そのぼおっとした効果を敢えてねらった句なのではないだろうか。すなわち、この句のテーマは誰かの死や葬儀にあるのではなく、炎天下での人間の判断力にあるというのが、私なりの解釈だ。まったく自信はないのだけれど。『春祭』(1982)所収。(清水哲男)


August 2181998

 また微熱つくつく法師もう黙れ

                           川端茅舎

躯にして精悍。たった三センチほどの蝉のくせに、突然大声をはりあげるのだから、病気がちの人にとってはたまらないだろう。こ奴め、どんな姿をしているのかと、少年時代にひっとらえてまじまじと見つめた覚えがあるが、その意外な小ささと透明な羽根の美しさに驚いたものだった。「法師」の名は、鳴き声からきているという。が、蝉の仲間から言わせれば、法師は法師でも、むしろやんちゃ坊主の類に入れられるのではあるまいか。「法師」というだけで、夏目漱石のように「鳴き立ててつくつく法師死ぬる日ぞ」という無常感につなげて詠む人が、いまでも多い。しかし、この句の作者は「法師」もクソもあるものかと、大いに不機嫌である。どちらも感じたままを詠んでいるとして、胃弱の漱石がこの対比のなかでは、はからずも健康者の感覚を代表してしまっているところが皮肉である。つまり、人生の無常などにしみじみと思いをいたすのは、健康体の人間によってはじめて可能だということであり、病人にはそんな心の余裕はないということだ。文学や文化の九割以上が健康者のためのものとしてあることを、病気がちの人でも気がついているかどうか。(清水哲男)




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