クリントンは凄い馬鹿なのか、馬鹿に凄いのか。大統領権力の凄さだけはわかった。




1998ソスN8ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2281998

 炎天にテントを組むは死にたるか

                           藤田湘子

所の集会所の庭でもあろうか。炎天下、あわただしくテントが組まれている様子から察して、どうやら葬儀の準備のようだ。それだけの中身の句である。しかし、気になるのは「死にたるか」という言葉使いだ。解釈は二つに分かれる。ひとつは「とうとう亡くなったのか」という意味で、町内の顔見知り程度の長患いの人の死を指している場合。もうひとつは素朴に疑問符的に使われていて、誰かが「亡くなったのだろうか」という意味の場合。いずれであるかは作者にしかわからないことだが、いずれであるにせよ、この「死にたるか」という言葉はずいぶんと直截な物言いだ。ストレートに過ぎる。あるいは、死者を必要以上に突き放した言い方だ。なぜだろうか。私の読み方では、炎天下という条件が、作者にこのいささか乱暴な言葉を吐かせたのだと思う。極暑のなかのぼおっとした頭の状態で物事を判断したり表現したりする、そのぼおっとした効果を敢えてねらった句なのではないだろうか。すなわち、この句のテーマは誰かの死や葬儀にあるのではなく、炎天下での人間の判断力にあるというのが、私なりの解釈だ。まったく自信はないのだけれど。『春祭』(1982)所収。(清水哲男)


August 2181998

 また微熱つくつく法師もう黙れ

                           川端茅舎

躯にして精悍。たった三センチほどの蝉のくせに、突然大声をはりあげるのだから、病気がちの人にとってはたまらないだろう。こ奴め、どんな姿をしているのかと、少年時代にひっとらえてまじまじと見つめた覚えがあるが、その意外な小ささと透明な羽根の美しさに驚いたものだった。「法師」の名は、鳴き声からきているという。が、蝉の仲間から言わせれば、法師は法師でも、むしろやんちゃ坊主の類に入れられるのではあるまいか。「法師」というだけで、夏目漱石のように「鳴き立ててつくつく法師死ぬる日ぞ」という無常感につなげて詠む人が、いまでも多い。しかし、この句の作者は「法師」もクソもあるものかと、大いに不機嫌である。どちらも感じたままを詠んでいるとして、胃弱の漱石がこの対比のなかでは、はからずも健康者の感覚を代表してしまっているところが皮肉である。つまり、人生の無常などにしみじみと思いをいたすのは、健康体の人間によってはじめて可能だということであり、病人にはそんな心の余裕はないということだ。文学や文化の九割以上が健康者のためのものとしてあることを、病気がちの人でも気がついているかどうか。(清水哲男)


August 2081998

 千編を一律に飛ぶ蜻蛉かな

                           河東碧梧桐

なみに「千篇一律」の原意は「多くの詩がどれも同じ調子で変化のない」こと。転じて、多くの物事がみな同じ調子なので面白みがない様子をさす(作者は「千編」と書いているが意味は同一)。なるほど、蜻蛉の飛ぶ様子はみな同じ調子で面白いとは言えない。飽かずに眺めるというものとは違う。碧梧桐は正岡子規の近代俳句革新運動の、より改革的な側面を担った。子規の提唱した視覚的写生を、より実験的に立体的に展開することに腐心した。後に門流からは「新傾向俳句」が勃興してくる。つまり、彼は俳句表現に常に新しさを求め続けた人である。その意味では、この句も当時にあっては相当に新しい手法で作られたものだ。機智に富んだ方法である。が、いま読んでみると、どこか物たりなさが感じられる。「言いえて妙」と膝を打つわけにはいかないのだ。はっきり言って、古い。それは「千篇一律」という古い言葉のせいではなくて、「千篇一律」をこのように使ってみせたセンスが古いのだ。多くの碧梧桐の句にはこの種の古さが感じられ、それは「新傾向俳句」にもつながる古さである。この人の句を読むたびに、時代の新しい表現とは何かを考えさせられる。新しさは「千篇一律」の温床でもある。『碧梧桐全句集』(1992)所収。(清水哲男)




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