留守の隣家の花鉢への水やりが今日で終わる。十鉢ほどの花の名前はわからずじまい。




1998ソスN8ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1681998

 魚どもや桶とも知らで門涼み

                           小林一茶

が桶に入れられて、門口に置かれている。捕われの身とは知らない魚どもは、のんびりと夕涼み気分で泳いでいる。「哀れだなあ」と、一茶が眺めている。教室でも習う有名な随想集『おらが春』に収められた句だ。が、この句の前に置かれた文章は教室では教えてもらえない。「信濃の國墨坂といふ所に、中村何某といふ醫師ありけり」。あるとき、この人が交尾中の蛇を打ち殺したところ、その晩のうちに「かくれ所のもの」が腐り、ぽろりと落ちて死んでしまった。で、その子が親の業をついで医者になった。「松茸のやうな」巨根の持ち主だったというが、「然るに妻を迎へて始て交はりせんとする時、棒を立てたるやうなるもの、直ちにめそめそと小さく、燈心に等しくふはふはとして、今更にふつと用立たぬものから、恥かしく、もどかしく、いまいましく、婦人を替へたらましかば、叉幸あらんと百人ばかりも取替へ引替へ、妾を抱えぬれど、皆々前の通りなれば、狂気の如く、唯だ苛ちに苛ちて、今は獨身にて暮しけり。……」。物語ではなく、現実にもこんな話があるのだと感じ入った一茶の結語。「蚤虱(のみ・しらみ)に至るまで、命惜しきは人に同じからん。ましてつるみたるを殺すは罪深きわざなるべし」。(清水哲男)


August 1581998

 帯売ると来て炎天をかなしめり

                           三橋鷹女

事句である。この句が敗戦後三年目(1948)の夏に詠まれたことを知らないと、意味不明となる。当時の流行語に「タケノコ生活」というのがあった。敗戦で現金収入の道が途絶え、さながらタケノコがおのれの皮を剥いでいくように、身につけていた衣類を売って生活することを言った。炎天下、そんな生活をしているらしい見知らぬ女性が、帯を買ってくれないかと訪ねてきたのである。しかしこのときに、たぶん作者は買わなかったのではなかろうか。なにも吝嗇からではなく、その女性が大切にしている帯だということが痛いほどにわかるので、買わなかったのではなくて、買えなかったのである。つまり作者には、買わないことが、彼女に対するせめてもの愛情表現なのであった。日常的な生活のなかで、これほど女性同士、お互いに悲しいことがあるだろうか。あの頃、私の母も娘時代からの着物や帯をすべて手放した。売った母も悲しかったろうが、買ってくださった方、くださらなかった方にも、みんなに悲しみがあったのだ。凡百の敗戦の句よりも、この句は深く敗戦国の庶民の哀れを訴えている。『昭和俳句選集』(1977)所収。(清水哲男)


August 1481998

 荒海や佐渡によこたふ天河

                           松尾芭蕉

まりにも有名な句。そして、文句なしの上出来な句。スケールの大きさといい品格の高さといい、芭蕉句のなかでも十指に入る傑作だろう。この句は越後の出雲崎で詠まれた句と推定されているが、実はこのあたりの海の波は非常におだやかだったらしい。が、あえて芭蕉は「荒海」と詠んだ。なぜか。それは芭蕉の気持ちが、かつて「佐渡」に流された多くの罪人や朝敵の気持ちに乗り移っているからである。波は静かでも、彼らにとっては「荒海」以外のなにものでもない海なのであった。悲愴感に溢れる彼らの心境を天の川に昇華させた、寒気がするほどに凄い作品だと思う。このようなフィクションを、芭蕉は『奥の細道』のあちこちで試みていて、なかには無残にも失敗した作品がないわけではない。が、この句は格別だ。事実ではないからといって句をおとしめてはならないし、芭蕉だからといってすべての作品をありがたがってもいけない。この句を受けて、北原白秋は「海は荒海、向ふは佐渡よ」という書き出しの傑作歌謡『砂山』を書いた。しかし、そこでの白秋は文字通りの「荒海」として、芭蕉の海をとらえている。短慮なのだけれども、この短慮あっての白秋の天才があったと言うべきだろう。(清水哲男)




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