敗戦。子供らは、まだ「ひもじさ」だけですんだ。親の世代はどんなに不安だったか。




1998ソスN8ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1581998

 帯売ると来て炎天をかなしめり

                           三橋鷹女

事句である。この句が敗戦後三年目(1948)の夏に詠まれたことを知らないと、意味不明となる。当時の流行語に「タケノコ生活」というのがあった。敗戦で現金収入の道が途絶え、さながらタケノコがおのれの皮を剥いでいくように、身につけていた衣類を売って生活することを言った。炎天下、そんな生活をしているらしい見知らぬ女性が、帯を買ってくれないかと訪ねてきたのである。しかしこのときに、たぶん作者は買わなかったのではなかろうか。なにも吝嗇からではなく、その女性が大切にしている帯だということが痛いほどにわかるので、買わなかったのではなくて、買えなかったのである。つまり作者には、買わないことが、彼女に対するせめてもの愛情表現なのであった。日常的な生活のなかで、これほど女性同士、お互いに悲しいことがあるだろうか。あの頃、私の母も娘時代からの着物や帯をすべて手放した。売った母も悲しかったろうが、買ってくださった方、くださらなかった方にも、みんなに悲しみがあったのだ。凡百の敗戦の句よりも、この句は深く敗戦国の庶民の哀れを訴えている。『昭和俳句選集』(1977)所収。(清水哲男)


August 1481998

 荒海や佐渡によこたふ天河

                           松尾芭蕉

まりにも有名な句。そして、文句なしの上出来な句。スケールの大きさといい品格の高さといい、芭蕉句のなかでも十指に入る傑作だろう。この句は越後の出雲崎で詠まれた句と推定されているが、実はこのあたりの海の波は非常におだやかだったらしい。が、あえて芭蕉は「荒海」と詠んだ。なぜか。それは芭蕉の気持ちが、かつて「佐渡」に流された多くの罪人や朝敵の気持ちに乗り移っているからである。波は静かでも、彼らにとっては「荒海」以外のなにものでもない海なのであった。悲愴感に溢れる彼らの心境を天の川に昇華させた、寒気がするほどに凄い作品だと思う。このようなフィクションを、芭蕉は『奥の細道』のあちこちで試みていて、なかには無残にも失敗した作品がないわけではない。が、この句は格別だ。事実ではないからといって句をおとしめてはならないし、芭蕉だからといってすべての作品をありがたがってもいけない。この句を受けて、北原白秋は「海は荒海、向ふは佐渡よ」という書き出しの傑作歌謡『砂山』を書いた。しかし、そこでの白秋は文字通りの「荒海」として、芭蕉の海をとらえている。短慮なのだけれども、この短慮あっての白秋の天才があったと言うべきだろう。(清水哲男)


August 1381998

 豪傑も茄子の御馬歟たままつり

                           幸田露伴

田露伴は、言うまでもなく『露団々』『五重塔』などで知られる明治の文豪だ。『評釈俳諧芭蕉七部集』という膨大な著作があり、俳句についても素人ではない。「歟」とは難しい漢字だが、ちゃんとワープロに入っている(いまどき誰が何のために使うのだろうか)。読み方は「か」ないしは「や」。文末につけて疑問・反語を示す(『現代漢語例解辞典』小学館)。ただし、ここでは一般的な切れ字として使われている。かつては荒馬にうちまたがって戦場を疾駆していた豪傑も、この世の人でなくなって、なんとも可愛らしい茄子のお馬さんに乗って帰ってきたよ…。と、いうところか。言われてみればコロンブスの卵だけれど、盂蘭盆会(魂祭)の句としては意表を突いている。稚気愛すべし。楽しい句だ。ところで、私が子供だったころまでは、茄子の馬などの供え物は、お盆が終わると小さな舟に乗せて川に流していた。いまではナマゴミとして捨てるのだろうが、なんだかとてもイタましい気がする。さすがの豪傑も、そんな光景には泣きそうになるのではあるまいか。『蝸牛庵句集』(1949)所収。(清水哲男)




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