あちこちの商店が店を閉めてお盆休み。故郷では東京のどんな話が出ているのか…。




1998ソスN8ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1081998

 桃の種桃に隠れむまあだだよ

                           中原道夫

桃、水蜜桃……どう呼んでもいいけれど、やわらかさと品位ある香りで、私たちを魅了してやまない初秋のくだものの王さま。道夫は視点をちょいとずらして、水蜜したたる果肉の奥に隠れひそむ種にズバリ迫らんとする。水気たっぷりの果肉を惜しむように、しゃぶりつきながら徐々に種へと迫る。鎮座まします種はまるで宝物のようだ。世に桃を詠んだ句は多いが、その種を詠んだ句はわずかしかない。あわてず、ゆっくり、隠れんぼの鬼でも探すように「もういいかぁーい」と、楽しみながらしゃぶり進む様子。まじめに言うのだが、桃はどこか道夫のアタマに似てはいまいか。うん、種もどこかしら似ているような気がしてくる。最新の句集『銀化』(1998)374句中の一句。道夫は10月からいよいよ結社「銀化」を主宰する。(八木忠栄)


August 0981998

 富士山頂吾が手の甲に蝿とまる

                           山口誓子

夏でも、富士山の頂上は寒い。「二度登る馬鹿」と言われて二度登ったことがあるので、とくに朝方の冷えこみ具合は忘れられない。そんなところに蝿がいるのは、確かに素朴な驚きだ。下界で想像すると、なにしろゴミ捨て場みたいな山でもあるから、蝿だっているさと思いがちだが、あの寒気のなかの蝿の存在はやはり珍しいのである。この句の前に「十里飛び来て山頂に蝿とまる」とある。自分もよく登ったものだが、蝿よ、お前もよくやったなあ。そんな感慨が自然にわいてきて、手の甲の蝿を払いもせずに見つめている図である。巨大な富士と微小な蝿との取り合わせも面白い。なんでもない句と言えば言えようが、この「なんでもなさ」のポエジーを面白がれるヒトにならなければ、この世を、死ぬまでほとんどなんでもないことの連続で通り過ぎてしまうことになる。誤解を恐れずに言えば、俳句は「なんでもない世」を面白く見つめるための強力なツールなのだと思う。ついでに余談的愚問だが、最近「富士額(ふじびたい)」の女性をとんと見かけないのは、ヘア・スタイルの変化によるものなのだろうか。『不動』所収。(清水哲男)


August 0881998

 ゆきひらに粥噴きそめし今朝の秋

                           石川桂郎

秋。句のように「今朝の秋」とも、あるいは「今日の秋」ともいう。暦の上では秋であるが、まだまだ暑い日がつづく。「そよりともせいで秋たつ事かいの」(鬼貫)の印象は、昔も今も変わらない。手紙などでの挨拶言葉は「残暑お見舞い」ということになる。とはいっても、暦の上だけであろうと、今日から「秋」と告げられてみると、昨日と変わらぬ暑さのなかにも、どこかで秋を感じたい神経が働くようになるから不思議だ。作者にも、そんな神経が働いているのだろう。「ゆきひら」は「行平なべ」のことで、薄い土鍋である。その土鍋から粥(かゆ)が噴きこぼれている様子は、季節はもう秋なのだと思うと、暑苦しさよりも清々しささえ感じられる。もしかすると作者は病気なのかもしれないが、「秋」の到来に心なしか体調もよくなってきた感じ。とにかく、おいしそうな朝粥ではないか。朝粥というと、私はどうしても香港のそれが忘れられない。安いし、うまい。秘訣はわかっている。いっぺんに大量に炊くからだ。「ゆきひら」の情緒はないにしても、うまさでは世界一だと思っている。この句を読むうちに、そんなことを思いだした。(清水哲男)




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