雑誌「すばる」、高橋睦郎「百人一句」は作者名に仮名がふってあるところが偉い。




1998ソスN8ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0981998

 富士山頂吾が手の甲に蝿とまる

                           山口誓子

夏でも、富士山の頂上は寒い。「二度登る馬鹿」と言われて二度登ったことがあるので、とくに朝方の冷えこみ具合は忘れられない。そんなところに蝿がいるのは、確かに素朴な驚きだ。下界で想像すると、なにしろゴミ捨て場みたいな山でもあるから、蝿だっているさと思いがちだが、あの寒気のなかの蝿の存在はやはり珍しいのである。この句の前に「十里飛び来て山頂に蝿とまる」とある。自分もよく登ったものだが、蝿よ、お前もよくやったなあ。そんな感慨が自然にわいてきて、手の甲の蝿を払いもせずに見つめている図である。巨大な富士と微小な蝿との取り合わせも面白い。なんでもない句と言えば言えようが、この「なんでもなさ」のポエジーを面白がれるヒトにならなければ、この世を、死ぬまでほとんどなんでもないことの連続で通り過ぎてしまうことになる。誤解を恐れずに言えば、俳句は「なんでもない世」を面白く見つめるための強力なツールなのだと思う。ついでに余談的愚問だが、最近「富士額(ふじびたい)」の女性をとんと見かけないのは、ヘア・スタイルの変化によるものなのだろうか。『不動』所収。(清水哲男)


August 0881998

 ゆきひらに粥噴きそめし今朝の秋

                           石川桂郎

秋。句のように「今朝の秋」とも、あるいは「今日の秋」ともいう。暦の上では秋であるが、まだまだ暑い日がつづく。「そよりともせいで秋たつ事かいの」(鬼貫)の印象は、昔も今も変わらない。手紙などでの挨拶言葉は「残暑お見舞い」ということになる。とはいっても、暦の上だけであろうと、今日から「秋」と告げられてみると、昨日と変わらぬ暑さのなかにも、どこかで秋を感じたい神経が働くようになるから不思議だ。作者にも、そんな神経が働いているのだろう。「ゆきひら」は「行平なべ」のことで、薄い土鍋である。その土鍋から粥(かゆ)が噴きこぼれている様子は、季節はもう秋なのだと思うと、暑苦しさよりも清々しささえ感じられる。もしかすると作者は病気なのかもしれないが、「秋」の到来に心なしか体調もよくなってきた感じ。とにかく、おいしそうな朝粥ではないか。朝粥というと、私はどうしても香港のそれが忘れられない。安いし、うまい。秘訣はわかっている。いっぺんに大量に炊くからだ。「ゆきひら」の情緒はないにしても、うまさでは世界一だと思っている。この句を読むうちに、そんなことを思いだした。(清水哲男)


August 0781998

 涼つよく朱文字痩せたる山の墓

                           原 裕

の朱文字は生存者を意味する。生前に自分の墓を建てるか、あるいは一家の墓を新しく建立した人の名前は「朱」で示される。よく見かけるのは後者で、墓の側面に彫られた建立者の姓名のうち「名」だけが朱色になっている。句の場合も、おそらくは後者だろう。山道で、ふと目についた一基の墓。そうとうに古い感じがするが、よく見ると建立者の名前は朱文字である。ただし、その朱文字は朱は痩せていて(剥げかけていて)、かなり「古い新墓」なのであった。ということは、墓の施主もいまでは年老いた人であることが想像され、山の冷気のなかで、作者は見知らぬその人の人生を思い、しばし去りがたい気持ちにとらわれたのである。人生的な寂寥感のただよう佳句といえよう。墓ひとつで、作者は実にいろいろなことを語っている。俳句ならではの表現でありテクニックだ。私には墓を眺める趣味はないけれど、たまに興味をひかれる墓がないではない。東京谷中の大きな墓地の一画に美男スターだった長谷川一夫の墓があって、そこには「水子の霊」も一緒にまつられている。『風土』(1990)所収。(清水哲男)




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