August 0481998

 昼顔にレールを磨く男かな

                           村上鬼城

城は、大正期の「ホトトギス」を代表する俳人。鳥取藩江戸屋敷生まれ(1865)というから、れっきとした武家の出である。司法官を志すも、耳疾のために断念。やむなく、群馬県の高崎で代書業に従事した(余談だが、侍の末裔に提灯屋や傘屋などが多いのは、鬼城ほどではないにしても、みな一応は文字が書けたからである)。ところで、このレールは蒸気機関車の走る鉄道のそれだろう。いまでは想像もおぼつかないが、錆びつかないようにレールを磨く(保守する)仕事があったというわけだ。黙々とレールを磨く男と、線路の木柵にからみついて咲いている数輪の昼顔の花。炎天下、いずれもが消え入りそうな様子である。けれども同情はあるにしても哀れというのではなく、むしろ猛暑のなかに溶け入るかのように共存していると見える、男と花の恍惚状態をとらえていると読んだ。耳の聞こえなかった作者ならではの着眼と言えるだろう。が、考えてみれば、誰にとっても真夏の真昼という時間帯は、限りなく無音の世界に近いのではあるまいか。(清水哲男)


August 0381998

 川に音還る踊の灯の消えて

                           岡本 眸

句での「踊」は盆踊りのこと。川端でのにぎやかな盆踊りの灯も消えると、人々は三々五々と散りはじめ、次第に静かな闇の世界が戻ってくる。宴の最中もいいものだが、その散り際にも情緒がある。なお去りがたく思っている作者の耳に、それまでは聞こえてこなかった(すっかり忘れていた)川の音が鮮やかに還ってきたというのである。ただそれだけのことでしかないのだけれど、盆踊りが果てた後のなんとも言えない寂寥感をきちんととらえており、絶品だ。私の田舎の盆踊り会場も、いつも川畔の小学校の校庭だったから、実感的にもよくわかる。田舎にも、最近はとんとご無沙汰だ。田舎の盆踊りには都会に出ている人たちがたくさん帰ってくるので、そのことだけでも十分に興奮できる要素がある。なつかしい顔を灯のなかでつぎつぎに見つけているうちに、なんだかそこが「この世」ならざる世界にも思えてきたりするのである。数年前、この我が母校も過疎の村ゆえに廃校になったという。山口県阿武郡高俣村立高俣小学校。父の出身校でもある。『朝』(1971)所収。(清水哲男)


August 0281998

 重き雨どうどう降れり夏柳

                           星野立子

立や梅雨ではなく、本降りの夏の雨である。三橋敏雄の句にも「武蔵野を傾け呑まむ夏の雨」とあるように、気持ちのよいほどに多量に、そして「どうどう」と音を立てて豪快に降る。気象用語を使えば「集中豪雨」か、それに近い雨だ。そんな雨の様子を、夏柳一本のスケッチでつかまえたところが、さすがである。柳は新芽のころも美しいが、幹をおおわんばかりに繁茂し垂れ下がっている夏の姿も捨てがたい。雨をたっぷりと含んだ柳の葉はいかにも重たげであり、それが「重き雨」という発想につながった。実際に重いのは葉柳なのだが、なるほど「重き雨」のようではないか。この類の句は、できそうでできない。ありそうで、なかなかない。うっかりすると、句集でも見落としてしまうくらいの地味な句だ。が、句の奥には「俳句修業」の長い道のりが感じられる。作者としては、もちろん内心得意の一作だろう。夏の雨も、また楽しからずや。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)




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