季語が葉柳の句

August 0281998

 重き雨どうどう降れり夏柳

                           星野立子

立や梅雨ではなく、本降りの夏の雨である。三橋敏雄の句にも「武蔵野を傾け呑まむ夏の雨」とあるように、気持ちのよいほどに多量に、そして「どうどう」と音を立てて豪快に降る。気象用語を使えば「集中豪雨」か、それに近い雨だ。そんな雨の様子を、夏柳一本のスケッチでつかまえたところが、さすがである。柳は新芽のころも美しいが、幹をおおわんばかりに繁茂し垂れ下がっている夏の姿も捨てがたい。雨をたっぷりと含んだ柳の葉はいかにも重たげであり、それが「重き雨」という発想につながった。実際に重いのは葉柳なのだが、なるほど「重き雨」のようではないか。この類の句は、できそうでできない。ありそうで、なかなかない。うっかりすると、句集でも見落としてしまうくらいの地味な句だ。が、句の奥には「俳句修業」の長い道のりが感じられる。作者としては、もちろん内心得意の一作だろう。夏の雨も、また楽しからずや。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)


May 2052003

 漁歴になき赤汐や夏柳

                           瀧井孝作

者十五歳の句。光景を想像してみると、おどろおどろしくも恐ろしい。みどり滴る美しい「夏柳(葉柳)」の向こうに透けて、血に染まったような色の海がどこまでも広がっているのだ。土地の漁師がはじめて見た異常現象「赤汐(あかしお・赤潮)」の実感はかくやとばかりに、精一杯にそれこそ想像した作者のフィクションである。フィクションと断定できるのは、当時の作者が飛騨高山の在であり、もしかするとまだ海などは見たことがなかったかもしれないと思えるからだ。この句は、河東碧梧桐が新傾向俳句の普及のために全国をまわる途次、飛騨高山に立ち寄った(明治四十二年)ところ、地元の俳句好きの連中がいわば無理やりにとっつかまえた格好で、急遽開いた句会での作である。兼題は「夏柳」。最年少であった孝作少年は、天下の碧梧桐の新傾向を強烈に意識して、あえてフィクション句を試みたのだろう。魚問屋で働いていたので、知識のなかに「赤汐」はあったのだろうが、それにしても「夏柳」と取りあわせたところは才気煥発と言うべきか。じっくり読めば「漁歴(りょうれき)になき」の説明調にひっかかるけれど、この措辞には慎重に空想の野放図を押さえる配慮が働いていて、やはり才気を感じさせられてしまう。少年ならではの力業と、その抑制と。なにも俳句とは限らない。そして、昔とも限るまい。子供のなかには、こんな力を咄嗟に発揮できる者はたくさんいる。力の源にあるのは、おそらく一所懸命の心なのだろう。想像の世界も全力が尽くされていないと、享受者には面白くない。と、これはほとんど私の自戒の弁だけれど……。『瀧井孝作全句集』(1974)所収。(清水哲男)


June 0962003

 葉柳に舟おさへ乘る女達

                           阿部みどり女

語は「葉柳(はやなぎ)」で夏。葉が繁り、青々としたたるように垂れている。句は、これから船遊びにでも出かけるところか。「女達」が「舟おさへ」て乗っているのは、和装だからだ。裾の乱れが気になるので、揺れる舟のへりにしっかりと手を添えながら乗っている。さながら浮世絵にでもありそうな光景で、美しい。……と単純に思うのは、私が男だからかもしれない。作者は女性だから、浮世絵みたいに詠んだつもりはなかったのかもしれない。たかが舟に乗ることくらいで、キャアキャア騒ぐこともなかろうに。せっかくの柳のみどりも興醒めではないか。などと、同性の浅はかな振る舞いに、いささかの嫌悪感を覚えている図だとも読める。「女達」と止めたのは、突き放しなのだとも……。まあ、そこまで意地悪ではないにしても、作者がただ同性のゆかしさ、好ましさを謳い上げたと読むのは早計のような気がする。同性同士でなければ感じられない何かが、ここに詠み込まれているはずだ。そう見なければ、それこそ同性の読者からすると、阿呆臭い句でしかなくなってしまうのではあるまいか。何度か読み直しているうちに、だんだんそんな気がしてきた。考えすぎかもしれないが、ふと気になりだすと止まらないのは、俳句装置の持つ磁力によるものだろう。高田浩吉じゃないけれど(って、私も古いなア)、♪土手の柳は風まかせなどと、呑気に歌い流してすむ句ではなさそうだ。女性読者のご意見をうかがいたいところ。『笹鳴』(1947)所収。(清水哲男)


May 2952013

 夏柳奥に気っ風(ぷ)のいい主人(あるじ)

                           林家たい平

川啄木の歌ではないけれど、今の時季の柳は葉が青々と鮮やかで目にしみるようだ。冬枯れの頃は葉が枯れ落ちてしまい、幽霊も行き場を失うような寒々しい風情。「気っ風のいい主人」とは、八百屋か魚屋あたりだろうか? まあ、どちらでもいいが、さかんに風にゆられている店先の柳の動きと呼応して、店の奥で立ち働く主人にもそれなりの勢いが感じられる。落語家の着目だから、主人は江戸っ子なのかもしれない。「奥」といういささかの距離感が、句に奥行きを与えている(ダジャレじゃないよ)。「気っ風」とか「ご気性(きしょう)」などという言葉は、若い俳人にはもはや縁遠いものだろう。句会で〈天〉をとった句だという。改めての合評会で、たい平が「えーとどなた(の句)でしたっけ」などとトボケて(?)いるのは愛嬌。たい平は「笑点」だけでなく、ラジオのパーソナリティーとしてもなかなかのもの。伸びざかりの明るい中堅真打で、こん平の弟子。高座での田中眞紀子の声帯模写に、たびたび度肝を抜かれたことがある。武蔵野美術大学造形学部出身の変わり種。他に「夏痩せの肩突き刺して滝の糸」がある。俳号は中瀞(ちゅうとろ)。『駄句たくさん』(2013)所載。(八木忠栄)




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