失業者の増加。労使協調路線の無思想のツケがまわってきている。組合の責任も大。




1998ソスN7ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2471998

 三日月の匂ひ胡瓜の一二寸

                           佐藤惣之助

い。パッと見せられたら、誰もがウムと唸る句だろう。ほのかに匂うような三日月を指して、一二寸の胡瓜のそれに似ていると言うのである。作者の才気煥発ぶりを感じさせられる。だが、この句には下敷きがある。一枚目のそれは其角の「梅寒く愛宕の星の匂かな」であり、二枚目のそれは芭蕉の「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」である。下敷きがあっても構いはしないが、下敷きを知っている人には、どうしても原句にあるのびやかさが気になって、この句の空間が狭く思われてしまう。止むを得ないところだ。ところで、佐藤惣之助はご存じ「赤城の子守歌」〔東海林太郎・歌〕など多くのヒット歌謡曲を書いた人で、いわば「殺し文句の達人」であった〔自由詩の詩人としても実績がある〕。この句も、実に小気見よく決まっている。いつの時代にも、またどんなジャンルにあっても、クリエイターが大衆に受け入れられるための条件のひとつは「換骨奪胎」の巧みさにあるようで、かつて一度も登場したこともないような新しい表現物は確実に置いてきぼりにされてしまうのが常である。ただし、問題はそうしたことを苦もなくやってのけられる才能の側にもないわけではなくて、詩人としての佐藤惣之助が忘れられようとしているのは、たぶん、そのあまりにも巧みな「換骨奪胎」による「殺し文句」のせいであろうかと思われる。溢れ出る才能にも、悲しみはある。(清水哲男)


July 2371998

 ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる

                           富沢赤黄男

をゆく船に、蟹が手をあげて「おーい、おーい」と呼びかけている。白い大きな船と赤い小さな蟹。絵本にでも出てくれば、微笑ましく見えるシーンだ。が、俳人は「呼びかけたって、どうにもなりはしないのに」と、いたましげなまなざしで蟹を見つめている。行為の空しさを叙情しているわけだ。1935〔昭和10〕年の作品で、歴史を振り返ると、翌年には二・二六事件、翌々年には日華事変が勃発している。深読みかもしれないけれど、この句は来るべき戦争を予言しているようにも読めないことはない。このとき白い船は平和の象徴であり、赤い蟹は天皇の赤子〔せきし〕としての民衆である。行為の空しさを叙情することは、戦争遂行者にとっては危険きわまりない「思想」と写る。かつて、俳人や川柳作家が次々に検挙された時代があったなどとは容易に信じられない現代であるが、逆に言えば、叙情や風刺もまたそれほどの力を持っていたということになる。しからば、この句をこのようにして現代という光にあてて見るとき、叙情の力はどの程度のものだろうか。少なくとも私には、いまだに衰えを知らぬパワーが感じられる。なお、作者は新興無季俳句運動の旗手であったから、当然無季として詠んでいるのだが、当歳時記では便宜上、夏の季語である「蟹」から検索できるようにしておく。『昭和俳句選集』〔1977〕所収。(清水哲男)


July 2271998

 あきなひ憂し日覆は頭すれすれに

                           ねじめ正也

者はこのころ、高円寺〔東京・杉並〕商店街で乾物商を営んでいた。商品に日があたらないように、夏場はぐうんと店の日覆いを下げるのである。背の高い通行人だと、少しかがむようにしなければ店内の様子が見えないほどだ。なんとも、うっとおしい感じになる。それはしかし、店内で商売をしている人にとっても同じことで〔いや、それ以上だろう〕、夏は物が売れないこともあり、うっとおしさは増すばかりだ。頭すれすれの日覆いにさえ、つい八つ当たりしたくもなろうというもの。そこで、何の用事もないのに日覆いをくぐって表へ出てみると「炎天の子供ばかりの路次に出づ」ということになるわけで、憂鬱は募るばかりである。この句は『蠅取リボン』〔1991〕から引用したが、息子さんの作家・ねじめ正一君とのご縁で、私が拙い文章を添えさせてもらった句集だ。私はこの句ができたころ〔だろう〕に高円寺北のアパートに住んでいて、ねじめ乾物店では一度買い物をした覚えがあるが、残念ながら直接作者から買ったのかどうかは定かではない。(清水哲男)




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