ときどき俳句に飽きる。詩にも飽きる。もちろん仕事にはしょっちゅう飽きてきた。




1998ソスN7ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2171998

 扇風機蔵書を吹けり司書居らず

                           森田 峠

った一人の司書がとりしきっている小さな図書館。作者は高校教師だったから、学校の図書室だろう。1981〔昭和56〕年の作品ということからしても、冷房装置のない図書館は他には考えられない。そんな暑い図書室に来る生徒はめったにいないので、いつも閑散としている。作者が本を借りようとしてカウンターに行ったところ、司書用の扇風機がまわっているだけで、姿が見えない。部屋にいるのが教師なので、彼は安心して少しの間席を外したのだろう。カウンターの背後には辞典や画集などの貴重本が並べられており、涼しげに扇風機からの風に吹かれている。窓の外からは、練習に励む野球部員たちの声…。学校の夏の図書室の雰囲気は、だいたいこういったものである。昔の公共図書館も同様で、この季節はあまり人気がなかった。ところが、最近の町の図書館は様相が一変してしまい、大にぎわいだ。ほどよく冷房はきいているし、おまけに静かだから、大いに混み合いだした。なかには昼寝の場所と心得ているとしか思えない人もいて、なかなかテーブルがあかないのには困る。はやく完璧な電子図書館ができてくれないものかと、勤勉な〔笑〕私が切に願うのがこの時期である。『逆瀬川』〔1986〕所収。(清水哲男)


July 2071998

 地図の上に子らと顔よせ夏休

                           上野巨水

あ夏休みだ、今年はどこへ行こうか。こんなふうに、夏休みと旅行とが結びつくようになったのは何時ごろからだったろう。「余暇の活用」などと言われはじめたのが三十数年ほど前。気運としてはそのころからあったのだろうが、実際にはここ四半世紀のことと思われる。戦前は知らないが、私の若いころには「夏は、どちらへ」という挨拶はなかった。旅があるとすれば、盆などで故郷に帰ることくらいだった。この句の発表年代は不明〔平井照敏編『新歳時記』所載〕だが、おそらくは四半世紀前くらいだろうと推定できる。つまり、こうした親子の情景が新鮮であった時代ということだ。当時は、この句を読んで羨ましくも微笑ましいと感じた読者が多数いたにちがいない。逆にトーンは抑えてあるが、作者の得意を思うべし。この句が昨日今日作られたものだったら、平凡すぎて話にもならない。まことに「歌は世につれ」るものである。そんな理屈はともかく、夏休みがはじまった。この、はじまったと思うときがいちばん楽しい。願わくば、ずうっと楽しい夏休みでありますように。(清水哲男)


July 1971998

 昼寝猫袋の如く落ちており

                           上野 泰

わずも「にっこり」の句。猫の無防備な昼寝はまさにこのとおりであって、人間サマにとっては羨ましいかぎりである。あまりにも無防備なので、ときには人間サマに踏みつけられたりする不幸にも見舞われる。それにしても、そこらへんに落ちている袋みたいだとは、いかにもこの作者らしい描写だ。言われてみると「コロンブスの卵」なのであって、「なあるほど」と感心してしまう。無防備という点では、人間の赤ちゃんも同じようなものだろうけれど、どう見ても袋みたいではない。袋は猫にかぎるようだ〔笑〕。どういうわけか、作者には昼寝の句が多い。「魂の昼寝の身去る忍び足」。もちろんこれは人間である作者の昼寝なのだが、上掲の句とあわせて読むと、今度は人間の「魂」がなんだか猫みたいに思えてきて面白い。これから昼寝という方、あるいは昼寝覚めの方、自分の寝相は何に似ていると思われるでしょうか。『佐介』〔1950〕所収。(清水哲男)




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