さるすべりが咲きはじめた。東京の梅雨明けも間近いだろう。サア、暑くなるぞ。




1998ソスN7ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1971998

 昼寝猫袋の如く落ちており

                           上野 泰

わずも「にっこり」の句。猫の無防備な昼寝はまさにこのとおりであって、人間サマにとっては羨ましいかぎりである。あまりにも無防備なので、ときには人間サマに踏みつけられたりする不幸にも見舞われる。それにしても、そこらへんに落ちている袋みたいだとは、いかにもこの作者らしい描写だ。言われてみると「コロンブスの卵」なのであって、「なあるほど」と感心してしまう。無防備という点では、人間の赤ちゃんも同じようなものだろうけれど、どう見ても袋みたいではない。袋は猫にかぎるようだ〔笑〕。どういうわけか、作者には昼寝の句が多い。「魂の昼寝の身去る忍び足」。もちろんこれは人間である作者の昼寝なのだが、上掲の句とあわせて読むと、今度は人間の「魂」がなんだか猫みたいに思えてきて面白い。これから昼寝という方、あるいは昼寝覚めの方、自分の寝相は何に似ていると思われるでしょうか。『佐介』〔1950〕所収。(清水哲男)


July 1871998

 青森暑し昆虫展のお嬢さん

                           佐藤鬼房

国の夏は、ときに「猛暑」という言葉がぴったりの猛然たる暑さとなる。たしか日本の最高気温の記録は岩手で出ているはずだ。そんな日盛りのなか、青森を旅行中の作者は昆虫展の会場に入った。暑さに耐え切れず、たまたま開かれていた昆虫展を見つけて、涼みがてらの一休みのつもりだったのかもしれない。と、いきなり会場にいた一人の少女の姿が目につき、このような句が生まれたというわけだ。「昆虫」と「お嬢さん」。この取り合わせには、作者ならずとも一瞬虚をつかれる思いになるだろう。少なくとも私はこれまで、昆虫が好きだという女性にお目にかかったことがない。ちっぽけな蜘蛛一匹が出現しただけでも、失神しそうになる人さえいる。ましてや、何の因果で昆虫展をわざわざ見に出かける必要があるだろうか。偏見であればお許しいただきたいが、一般的にはこの見方でよいと思う。作者もそう思っていたので、あれっと虚をつかれたわけだ。昆虫の標本を見ながらも、時折視線は彼女に注がれたであろう。そしてだんだんと、好意がわいてきたはずでもある。このときにはもはや、外部の猛暑は完全に消え失せてしまっている。「お嬢さん」の威力である。『何處へ』〔1984〕所収。(清水哲男)


July 1771998

 蜥蜴出て遊びゐるのみ牛の視野

                           藤田湘子

際に、牛の視野がどの程度のものなのかは知らない。大きな目玉を持っているので、たぶん人間よりも視野は広いと思われるが、どうであろうか。逆に闘牛のイメージからすると、闘牛士が体をかわすたびに牛は一瞬彼を見失う感じもあるので、案外と視野は狭いのかもしれない。どちらかはわからないけれど、この句は面白い。鈍重な牛に配するに、一見鈍重そうに見えるがすばしこい蜥蜴〔とかげ〕。もちろん、大きな牛と小さな蜥蜴という取り合わせもユーモラスだ。牛も蜥蜴もお互いに関心など抱くはずもないのだけれど、俳人である作者の視野にこうして収められてみると、俄然両者には面白い関係が生まれてきてしまう。動くものといえばちっぽけな蜥蜴しか見えない大きな牛の「孤独」が浮かび上がってくる。この取り合わせは、もとより作者自身の「孤独」に通じているのだ。作者にかぎらず、俳人は日常的にこのような視野から自然や事物を見ているのだろう。つまり、何の変哲もない自然や事物の一部を瞬時に切り取ってレイアウトしなおすことにより、新しい世界を作り上げる運動的な見方……。それが全てではないと思うが、俳句づくりに魅入られる大きな要因がここにあることだけは間違いなさそうだ。『途上』〔1955〕所収。(清水哲男)




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