開票速報にサッカー中継。若かったら当然見ていた。最近は全く徹夜がきかない。




1998ソスN7ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1371998

 けふのことけふに終らぬ日傘捲く

                           上田五千石

日中にやっておかなければならないことを、結局は果たせなかった。といっても、そんなに大きな仕事ではない。ちょっとした用事や挨拶など。帰宅して日傘を捲きながら、少し無理をしてでも終わらせておけばよかったのにと、軽い後悔の念にとらわれている状態だろう。そうした思いを断ち切るかのように、キリッと傘を捲き上げるのだ。こういうことは、よくある。少なくとも、私にはよく起きる。しかし、世の中には恐ろしいほどにスケジュールに忠実な人もいて、きちんきちんと仕事や用事をこなしていく。その様子は傍目で見ていても気持ちがよいものだが、どうしても私には真似ができない。生来のモノグサということもあるけれど、突然スケジュールにはなかったスケジュールが出てくることが多く、その枝葉のほうのスケジュールに没入してしまいがちからだ。パソコンで手紙を書こうとして、ふとやりかけていたゲームの続きにはまりこんでしまうようなもので、こうなるともうイケない。日傘を捲くどころか、日傘の存在すら失念してしまうのである。『俳句塾』〔1992〕所収。(清水哲男)


July 1271998

 かなしみの芯とり出して浮いてこい

                           岡田史乃

語は「浮いてこい」。「ええっ」と思う読者のほうが、もはや多数派だろう。かくいう私も、書物のなかだけの知識しかなく、江戸時代の玩具から発した季語のようだ。「浮人形」ともいい、要するに夏の水遊びで、いまの幼児も遊ぶ〔と思うけど〕金魚だとか舟や鳥の形をしたおもちゃだと思えばいいらしい。昔、縁日でよく見かけた樟脳などを利用して水面を走らせるセルロイド製の船も、「浮いてこい」の仲間だと、書物には書いてある。むろん作者は実物を知っているわけだが、この句を読むと、そうした玩具のイメージよりも「浮いてこい」という言葉のほうに発想の力点がかかっていると思える。たかが玩具なのだけれど、その名前を知っている作者にしてみれば、そのちっぽけな姿にすら声援を送りたい何か悲しい事情があったのだろう。芯を取り出したいのは、作者のほうなのだ。それにしても「浮いてこい」とは、面白いネーミングではある。たぶん昔の親は、この玩具を水の中に沈めては、浮いてこないのではないかと心配顔の子供に「浮いてこい」と唱えさせたのだろう。さて、「浮いてこい」がいまの縁日にあるかどうか、機会があったら探してみることにしよう。『浮いてこい』〔1983〕所収。(清水哲男)


July 1171998

 夏痩せて身の一筋のもの痩せず

                           能村登四郎

ーワードは「身の一筋のもの」である。夏負けで身体全体が少々痩せてきても、この部分だけは痩せてはいないと、作者は言っている。さてそれならば、「身の一筋のもの」とは何だろうか。読者が男性であれば(いや、男性でなくとも)、たぶん「ははあ、アレのことか」とすぐに見当がつくのではなかろうか。これを精神的なアレだと思った人は、生来のカマトトだろう。私も、みなさんと同じように(!?)即物的に「アレのことか」と思った次第だ……。で、そう思った次には、すぐに「よく言うよ」と思って笑ってしまい、その次にはしかし、なんだか妙な気分に捉われてしまった。この句に詠まれていることが本当かどうかという問題ではなくて、ヒトの身体というものの寂しさを、この句が象徴しているように思えたからである。自分の身体は、死ぬまで自分と一緒である。あたかもそれは「不治の病」と同じような関係構造を有しているのであり、その意味から言うと、人は誰でも「自分という病」を、身体的には先験的に病んでいるのだとも言える。そこらあたりのことを、しかし俳人はかくのごとくに「へらへらっ」とした調子で詠んでみせる。もしかしたら持ち合わせている「身の一筋のもの」が、かなり私などとは異なるのかもしれない。そんな不安にもさいなまれそうになる作品だ。『民話』(1972)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます