1998N712句(前日までの二句を含む)

July 1271998

 かなしみの芯とり出して浮いてこい

                           岡田史乃

語は「浮いてこい」。「ええっ」と思う読者のほうが、もはや多数派だろう。かくいう私も、書物のなかだけの知識しかなく、江戸時代の玩具から発した季語のようだ。「浮人形」ともいい、要するに夏の水遊びで、いまの幼児も遊ぶ〔と思うけど〕金魚だとか舟や鳥の形をしたおもちゃだと思えばいいらしい。昔、縁日でよく見かけた樟脳などを利用して水面を走らせるセルロイド製の船も、「浮いてこい」の仲間だと、書物には書いてある。むろん作者は実物を知っているわけだが、この句を読むと、そうした玩具のイメージよりも「浮いてこい」という言葉のほうに発想の力点がかかっていると思える。たかが玩具なのだけれど、その名前を知っている作者にしてみれば、そのちっぽけな姿にすら声援を送りたい何か悲しい事情があったのだろう。芯を取り出したいのは、作者のほうなのだ。それにしても「浮いてこい」とは、面白いネーミングではある。たぶん昔の親は、この玩具を水の中に沈めては、浮いてこないのではないかと心配顔の子供に「浮いてこい」と唱えさせたのだろう。さて、「浮いてこい」がいまの縁日にあるかどうか、機会があったら探してみることにしよう。『浮いてこい』〔1983〕所収。(清水哲男)


July 1171998

 夏痩せて身の一筋のもの痩せず

                           能村登四郎

ーワードは「身の一筋のもの」である。夏負けで身体全体が少々痩せてきても、この部分だけは痩せてはいないと、作者は言っている。さてそれならば、「身の一筋のもの」とは何だろうか。読者が男性であれば(いや、男性でなくとも)、たぶん「ははあ、アレのことか」とすぐに見当がつくのではなかろうか。これを精神的なアレだと思った人は、生来のカマトトだろう。私も、みなさんと同じように(!?)即物的に「アレのことか」と思った次第だ……。で、そう思った次には、すぐに「よく言うよ」と思って笑ってしまい、その次にはしかし、なんだか妙な気分に捉われてしまった。この句に詠まれていることが本当かどうかという問題ではなくて、ヒトの身体というものの寂しさを、この句が象徴しているように思えたからである。自分の身体は、死ぬまで自分と一緒である。あたかもそれは「不治の病」と同じような関係構造を有しているのであり、その意味から言うと、人は誰でも「自分という病」を、身体的には先験的に病んでいるのだとも言える。そこらあたりのことを、しかし俳人はかくのごとくに「へらへらっ」とした調子で詠んでみせる。もしかしたら持ち合わせている「身の一筋のもの」が、かなり私などとは異なるのかもしれない。そんな不安にもさいなまれそうになる作品だ。『民話』(1972)所収。(清水哲男)


July 1071998

 ぬけおちて涼しき一羽千羽鶴

                           澁谷 道

は、全国的に千羽鶴の出番だ。高校野球のベンチには、すべといってよいほどに千羽鶴がかけられている。お百度参りなどと同じで、累積祈願のひとつだ。祈りをこめて同一の行為を数多く繰り返すことにより、悲願達成への道が開けるというもので、現代っ子にも案外古風なところがある。しかも、千羽鶴の場合は行為の結果が目に見えるということがあるので、人気も高いのだろう。ただし、千羽鶴は見た目には暑苦しいものだ。多種の色彩の累積は、とても涼しくは見えない。作者はそこに着目して、何かの拍子に落ちてしまった一羽を詠んでいる。言われてみると、なるほどこの一羽だけは涼しげではないか。「哀れ」という感性ではなく「涼し」という感覚でつかまえたところが、凡手ではないことをうかがわせる。澁谷道は医学の人(平畑静塔に精神神経科学を学ぶとともに俳句を師事)だから、安手なセンチメンタリズムに流されることがなく、独特の詩的空間をつくってきた。この千羽鶴も、たぶん入院患者のためのものだろう。が、高校野球のベンチの光景などにもつながる力と広がりをそなえている。『藤』(1977)所収。(清水哲男)




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