どんなに精緻な論理があろうとも「選挙予測」は具体的な個人に対する愚弄である。




1998ソスN7ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0971998

 鼻さきに藻が咲いてをり蟇

                           飴山 實

の花の咲いている池の辺で、作者は蟇(ひきがえる)を見つけた。蟇は俳人と違って風流を解さないから、鼻先に藻が咲いていようと何が咲いていようと、まるで意に介さずに泰然としている。当たり前の話ではあるが、なんとなく可笑しい。グロテスクな蟇も、ずいぶんと愛敬のある蛙に思えてくる。このあたりの技巧的表現は、俳句ワールドの独壇場というべきだろう。蟇の生態をつかまえるのに、こんなテもあったのかと、私などは唸ってしまった。なお、蝦蟇(がま)は蟇の異名である。蟇の研究をしている人の本を読んだことがあるが、彼らの世界には一切闘争という行為はないそうだ。そして、親分もいなければ子分もいない。私たち人間からすれば、まさに彼らは「ユートピア」の住人であるわけだが、数はどんどん減少しているという。誰が減らしているのかは書くだけ野暮というものだけれど、最近では確かに、滅多にお目にかかる機会がない。戦前のエノケンの歌の文句に、財布を拾ってやれ嬉しやと、明るいところでよく見てみたら「電車に轢かれたひきがえる……」というのがあった。それほどに、都会にもたくさん彼らはいたということである。『辛酉小雪』(1981)所収。(清水哲男)


July 0871998

 でで虫や父の記憶はみな貧し

                           安住 敦

生、小さな殻に閉じこもって生きる「でで虫(蝸牛)」。雨露をなめ、若葉を食べる。それが父親の貧苦の生涯を連想させるのである。作者に語ってもらおう。「中学の卒業式に、父は古いモーニングを着て参列した。わたくしは総代として答辞を読んだ。式が終わると親子は一緒に校門を出、通りがかりの蕎麦屋へ上って天ぷら蕎麦を食べた。お前、大学へいきたかったんだろうね、と父は思い出したように言った。でもいいんですよ、とわたくしも素直に答えた。済まないね、といって父は眼をしばたたいた。わたくしの思い出のうち最もさびしい父の姿だった」。大正十五年(1926)三月の話。したがって、卒業したのはもちろん旧制中学(東京・立教中学)だ。作者は十八歳。父親に対して「いやいいんですよ」というていねいな言葉づかいが、当時の父子の距離感を表している。私も、両親に対してはほとんどこのような言葉づかいで通してきた。親が率先して友だちのように振る舞うようになったのは、ほんの最近のことだ。教師においても、また然り。どちらがよいとは言えないけれど、親子の距離は自立への道の遠近を暗示しているようには思える。『暦日抄』(1965)所収。(清水哲男)


July 0771998

 鳶鳴きし炎天の気の一とところ

                           中村草田男

に最も多産だった草田男らしい晴朗な一句。炎天にげんなりするのではなく、むしろ烈日を快としている。慶応義塾の応援歌ではないが、まさに「烈日の意気高らかに」ではないか。鳶の鳴き声、その「一とところ」に「気」を感じたということは、すなわち作者一人(いちにん)の気力充実ぶりを表現しているのである。体調も、すこぶるよろしい。不調だったら、とてもこうは詠む気になれないだろう。生きていることへの喜びでいっぱいだ。このとき、作者の人生は全面的に肯定されている。草田男は常々「二百年は生きるつもりだ」と語っていたというが、自然へのこうした溶け込みようを見せられると、この言説にも素直に頷けるのである。同時期に発表された「炎天や鏡の如く土に影」にしても、微塵の自虐性もない。とりわけて近代の文芸においては「自虐」の分量が芸術的な価値につながるようなところがあり、それはまた歴史的な必然ではあるのだけれど、ときにこのような文芸的発想も見直しておく必要がある。さらに一句。「妻戀し炎天の岩石もて撃ち」。いずれも、草田男壮年三十八歳の作品である。『火の鳥』(1939)所収。(清水哲男)




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