島田荘司の角川本では三浦氏シロの印象。本書の宣伝が皆無に近かったのは何故か。




1998ソスN7ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0271998

 夕顔の男結の垣に咲く

                           小林一茶

集をめくっていて、ときどきハッと吸い込まれるような文字に出会うときがある。この場合は「男結(おとこむすび)」だ。最近はガムテープやら何やらのおかげで、日常的に紐を結ぶ機会が少なくなった。したがって「男結」(対して「女結」がある)という言葉も、すっかり忘れ去られてしまっている。が、たまに荷造りをするときなどには、誰もが男結びで結ぶことになる。ほどけにくい結び方だからだ。つい四半世紀前くらいまでは、言葉としての「男結」「女結」は生きていたのだから、それを思うと、私たちの生活様式の変わりようには凄まじいものがあって愕然とする。さて、肝腎の句意であるが、前書に「源氏の題にて」とあるので、こちらはおのずからほどけてくる。「夕顔」は源氏物語のヒロインのひとりで、十九歳の若さで急死した女性だ。彼女の人生のはかなさと夕顔の花のそれとがかけられているわけで、光源氏を「男結」の男に連想したところが、なんとも憎らしいほどに巧みなテクニックではないか。考えてみれば、一茶が見ているのは、単に垣根に夕顔が咲いている情景にすぎない。そんな平凡な様子が、名手の手にかかると、かくのごとくに大化けするである。俳諧、おそるべし。中村六郎校訂『一茶選集』(1921)所収。(清水哲男)


July 0171998

 夏痩せて豆腐一丁の美食思う

                           原子公平

べなければいけないと思うと、かえって食べたくなくなる。そしてふと、こういうことを思いついたりする。「豆腐一丁の美食」とは、何かの逸話か故事を踏まえているのかもしれない。このように、消滅の方向に向いた極端には「美」がある。しかし、ダイエットにはない。ダイエットは、一見肉体を滅ぼす行為に見えるが、結局は自己の消滅を望んではいないからである。消滅どころか再生を欲望する企みにすぎないからだ。ところで豆腐といえば、江戸天明期に『豆腐百珍』という本が出版されている。豆腐料理のレシピ集だ。最近入手した現代語訳本(京都山科・株式会社「大曜」刊)で見てみると、それぞれの料理には「尋常品」「通品」から「妙品」「絶品」まで六段階のランクづけがあって、眺めているだけで楽しい。夏痩せとも「美」とも関係なく、つくって食べてみたくなってしまう。ここで「絶品」のページから「辛味とうふ」の作り方をお裾分けしておこう。試したわけではないので責任は持てないが、うーむ、こいつは相当に辛そうですぞ。酒肴でしょうね。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)

[辛味とうふ]かつおの出し汁に、うす醤油で味をつけ、おろし生姜をたくさん入れます。たっぷりした出し汁で、豆腐を一日中たきます。豆腐一丁につき、よく太った一握りほどの生姜を十個ほど、おろして入れるとよいでしょう。


June 3061998

 外を見る男女となりぬ造り滝

                           三橋敏雄

女の機微に疎い人は(といって、私が敏いというわけではありません。念の為)、二人が仲違いしたのかと誤解するかもしれない。事実はその逆で、いうところの「深い仲」になった感慨が詠まれているのである。新婚なのか不倫なのか、はたまた行きずりの恋なのか。定かではないけれど、いや、そんなことはどうでもよろしいのであって、とりあえず旅館というような場所では、外を見るしか所在のないのがこういうときである。二人は、べつに滝を観賞しているわけではない。宿屋がこれみよがしに造成した滝が、いちばん目立つので、仕方なく目をやっているだけの話だ。それにしても、この国の宿屋の庭には悪趣味が目立つ。造り滝といい枝々をひねくりまわした松といい、さらには死にそうな鯉を泳がせている池といい、あれらは全体いかなる美意識の産物なのであろうか。そんな野暮な庭のおかげをこうむるのは、こういうときだけだ。つまり、悪趣味も人助けになるときもあるということ。が、その庭すらも存在しない現今のラブホテルでは、こんなときの二人はどうするのだろうか。たぶん、見たくもないテレビのスイッチを入れて、外を見ている気分になるのであろう。『まぼろしの鱶』(1966)所収。(清水哲男)




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