入場券もなくサッカー・ツァーに参加するおとなしい日本人。「世も末」である。




1998ソスN6ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1761998

 バナナむく吾れ台湾に兵たりし

                           鈴木栄一

つての戦争とバナナとは、イメージ的に強烈な結び付きがあった。作者のように、兵隊として実際に台湾バナナを食べた人もいるけれど、多くの国民にとっては、バナナは南洋の夢の食べ物として垂涎の的なのであった。島田啓三の漫画『冒険ダン吉』にも盛んにバナナが登場し、庶民にとっては日本の南方進出の象徴としての食べ物だったわけだ。「青いバナナも黄色く熟れて……」という歌も流行したが、しかし、戦争中の国内でバナナを口にできた人は少なかったはずである。私のように『冒険ダン吉』の絵でしかバナナを知らない子供も多かったろう。それでも、わずかに乾燥バナナだけは出回っており、その干涸びたバナナでも美味は美味だった。敗戦後しばらくの間はその乾燥バナナさえ姿を消してしまったが、高校時代に偶然、立川駅の売店で発見したときは嬉しかった。買ってみると、包装紙にはなにやら英語が書いてあって、アメリカ軍御用達の趣きがあったことを覚えている。戦時中の日本のそれも、軍隊の保存食用に開発されたものではないかと思う。バナナと戦争。詳しく調べれば、興味深いノンフィクションが書けるかもしれない。(清水哲男)


June 1661998

 団扇膝に立て世界は左右に分れけり

                           上野 泰

扇(うちわ)が世界を二つに分けるという発想は、上野泰の感性ならではのものだ。文句なしに面白い。ただし、面白いと感じるのは、ほとんどそれとは意識せずに、私たちもまた日常的にこういうことをやっているからだろう。剣客の塚原卜伝は背後から打ち込まれたとき、咄嗟に目の前の鍋の蓋を防具にしたというが、そこまで実践的とはいかずとも、人が手にする物は本来の用途とは異なる精神的心理的な防具や武器などになる場合がある。たとえば、ニュースキャスターでいつも鉛筆を持って放送している人がいる。あれはメモを取るという本来の用途とは別に、彼の鉛筆には剣の意味もあるわけで、心理的な自己防衛のための小道具なのである。見ていると、後者の役割のほうが大きいことがわかる。そういうことの延長上に、この団扇も別の意味をもって現象しており、世界を真二つに切断する強力な刃、ないしは巨大な壁のように機能している。かくのごとくに団扇一枚で世界を左右に分ける男もいれば、団扇の持ちようで全身を完璧に隠せる女もいる……。すなわち、小は大を兼ねるのである。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


June 1561998

 夕釣や蛇のひきゆく水脈あかり

                           芝不器男

格的な釣りの体験はないが、それでも句の情景はよくわかる。夕暮れ時の川面は、あたりが暗くなってきても、しばらくは明るいのである。その静かに明るい川面を、音もなくすうっと蛇が横切っていった。ひいている一筋の、ひときわ明るく見える水脈(みお)でそれと知れるのだ。それだけのことしか言ってはいないが、読者には川の雰囲気やそのあまやかな匂いまでが伝わってくる。なつかしい気までしてくる。芝不器男はトリビアルな素材を詠んで、その場の全体像を彷彿とさせる名人だった。つとに有名な「麦車馬に遅れて動き出づ」なども一例で、映画のスローモーション場面を見ているようである。これだけで麦秋の農村風景を書き切っている。不器男は愛媛の人。東京大学農学部や東北大学工学部で学んだが、いずれも卒業するにいたらず帰郷。1930年(昭和5年)に、二十七歳にも満たない若さで亡くなった。したがって句数も少なく、現在入手可能な本としては、飴山實が編んだ『麦車』(ふらんす堂・1992)の209句で全貌を知ることができる。(清水哲男)




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