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June 1061998

 梅雨茸や勤辞めては妻子飢ゆ

                           安住 敦

雨茸は、梅雨時に生じる茸の総称。季節が季節だけに、みな陰湿な感じがする。この句に触れて共感しないサラリーマンは、まず皆無なのではあるまいか。作者は、後年次のように自註している。「『妻子飢ゆ』はすこし悲愴調だが、事実こうでも言わなければおさまらないほど、当時勤めが憂鬱で辞めることばかり考えていた。俳句で食っていけるともいこうとも思わなかったが、いやな勤めならやめてしまえばいい、何とかやっていけるだろう、ふみ切ればいいのだと思いながらやはりその決断がつかなかった。(中略)人生五十代も終わろうとしての、無能な男の焦燥がわがことながらいたわしい」。句は1965年に書かれていて、この国の経済は上り坂にあった。還暦目前の男にも「何とかやっていけるだろう」という雰囲気だけはあったわけだが、今の不景気の最中ではそれすらもない。句の持つやりきれなさは時代とともに変化し、現代において最もその暗い顔を見せているというべきか。それにしても、この句が何のことやら不可解になるような時代は、いつか来ることがあるのだろうか。来そうもないですなア。『午前午後』(1972)所収。(清水哲男)


July 0471999

 わたくしに劣るものなく梅雨きのこ

                           池田澄子

初は、作者の純粋な自嘲の句かと思った。でも、誰にもかえりみられない陰湿な梅雨時の茸(きのこ)の独白と読んだほうが面白い。つまり、茸がつぶやいているのだ。もちろん、そこには作者自身の自嘲が投影されているわけだけれど、不思議に暗くないところが不思議(笑)な作品だ。なぜだろうと、ほとんど一日中考えてしまった。で、結論は「わたくし」という主語にあると落ち着いた。「私」でもなく「あたし」でもなく、「わたくし」とは自らを四角四面に尊重するニュアンスを含んだ言葉だから、正直に「劣るものなく」と自己卑下をしていても、主語のまっとうさが発語者の印象を救うのである。映画の寅さんが「わたくし、生まれも育ちも柴又です」とやる、アレに共通する感覚だと思う。句での茸は寅さんの仲間なのだと思うと、とても楽しい。梅雨茸を、こんなふうに不思議な雰囲気に仕立て上げた作者に拍手をおくりたい。ああ、この句をぜひとも「梅雨きのこ」に読ませてやりたいものだ。何と言うだろうか。やはり「わたくし……」と、慇懃(いんぎん)に切り出してくるのでしょうね。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)




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