蟄」隱槭′陋闍コ縺ョ句

June 0661998

 蛇苺われも喩として在る如し

                           河原枇杷男

から禁じられても青い梅などは平気で口にしていた悪戯小僧たちも、蛇苺だけには手を出さなかった。青梅は腹をこわすだけですむけれど、蛇苺は命を失うと脅かされていたからだ。敗戦直後の飢えていた時代にも、蛇苺だけはいつまでも涼しい顔で生き残っていた。別名がドクイチゴ。そういう目で見ると、たしかに蛇苺の赤い色は相当に毒々しい。命名の由来は知らないが、べつに蛇が食べるからというのではなく、たぶん人々が蛇のように忌み嫌ったあたりにありそうだ。つまり、れっきとした苺の仲間なのに、苺とは見做されてこなかった。苺なのに苺ではないのだ。ここを踏まえて、作者は自分も蛇苺と同じように、人間なのに人間じゃないような気がすると韜晦(とうかい)している。人間の喩(ゆ)みたいだと、自嘲しているのである。枇杷男のまなざしは、たいていいつも暗いほうへと向いていく。性分もあるのだろうが、人間存在の根底に流れているものは、そんなに明るくないことを絶えず告知しつづけてきた表現には、ずしりと胸にこたえるものがある。なお、蛇足ながら蛇苺はまったくの無毒であり、勇気を出して食べた人によると「極めてまずい」のだそうである。『蝶座』(1987)所収。(清水哲男)


May 0952000

 ぽつつりとおのが名知らぬ蛇苺

                           川島千枝

には失礼な話だが、蛇くらいしか食べないとされていたので「蛇苺」。別名を「毒苺」とも。しかし毒性はないそうで、食べられるがとても不味いということは、本欄で以前書いたことがある。食べたのは、私ではない。もっと勇気のある男だ。最近は見かけたこともないが、子供のころにはそこらへんに自生している、ありふれた植物だった。熟すと見事なほどに真っ赤な色になり、「毒苺」の先入観から「ああ、毒の色とはこういうものか」と思っていた。時として、華麗なるものは、その華麗さゆえに誤解され、うとんじられる。そんな人間間の評判も知らず「おのが名」も知らないで、「ぽつつり」と実をかかげている植物を、作者は哀れとも思い健気とも思い、哀しみを感じている。まことに理不尽な命名ではないか、と。「ぽつつりと」は「蛇苺」の立つ様の写生であると同時に、このときの作者の気持ちのありようでもある。「ぽつつりと」……か。しみじみと心に入ってくるいい言葉ですね。『深祷』(2000)所収。(清水哲男)


June 1862002

 蛇苺いつも葉っぱを見忘れる

                           池田澄子

語は「蛇苺(へびいちご)」で夏。おっしゃる通り。たまに蛇苺を見かけても、ついつい派手な実のほうに気をとられて、言われてみればなるほど、「葉っぱ」のほうは見てこなかった。こういうことは蛇苺にかぎらず、誰にでも何に対してでも日常的によく起きることだろう。木を見て森を見ず。そんなに大袈裟なことではないけれど、私たちの目はかなりいい加減なところがあるようで、ほんの一部分を認めるだけで満足してしまう。いや、本当はいい加減なのではなくて、目が全焦点カメラのように何にでも自動的にピントがあってしまつたら、大変なことになりそうだ。ものの三分とは目が開けていられないくらいに、疲れ切ってしまうにちがいない。その意味で、人の目は実によくできている器官だと思う。見ようとしない物は見えないのだから。それにしても、やはり葉っぱを見ないできたことは気になりますね。このあたりが、人心の綾の面白さ。ならば、一度じっくり見てやろうと、まことに地味な鬼灯の花にかがみこんだのは皆吉爽雨だった。「かがみ見る花ほほづきとその土と」。その気になったから「土」にまでピントがあったのである。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


May 2552009

 水音は草の底より蛇苺

                           ふけとしこ

のように田舎で育った人間には、ごく当たり前の情景ではあるが、それだけにいっそうの郷愁を呼び起こしてくれる句だ。細い山道を歩いていたりすると、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。周囲には雑草が繁茂しているので、小さな流れは「草の底」にあって見えないのである。そんな山道には、ところどころに「蛇苺」が真っ赤な実をもたげている。この苺は食べてはいけないことになっていたからか、路傍に鮮やかでもどこかよそよそしく見える。しかも私には、蛇苺は日を遮られた薄暗い場所を好むという印象があるので、情景は一種陰気な情感を醸し出す。それがかえって、もうほとんど忘れかけていたかつての自分のあれこれまでをも想起させることになった。この情景をいま、たとえばビデオカメラで撮影してくっきりと蘇らせることは可能だ。でも、それは句のようには郷愁につながってはいかないだろう。なぜなら、ビデオカメラには水の音や蛇苺の姿を忠実に再生する力はあっても、あくまでもそれは人為的に切り取った断片的な情報以上の情報をもたらさないからである。このあたりに、文芸の力がある。句はたしかに情景を切り取ってはいるのだけれど、しかし、それは切り取った情景以上の時間や空間をいっしょに連れて来るものだからだ。掲句にも、切り取られた情景よりもはるかに多量の情報がつまっている。この点を肯定しなければ、第一、俳句のような短い様式は根本から成立しなくなってしまう。言葉とは、面白いものである。最近、蛇苺を見ない。『インコに肩を』(2009)所収。(清水哲男)




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