やっと元気になりました。たくさんのお見舞のお便りをいただき感謝しております。




1998ソスN6ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0661998

 蛇苺われも喩として在る如し

                           河原枇杷男

から禁じられても青い梅などは平気で口にしていた悪戯小僧たちも、蛇苺だけには手を出さなかった。青梅は腹をこわすだけですむけれど、蛇苺は命を失うと脅かされていたからだ。敗戦直後の飢えていた時代にも、蛇苺だけはいつまでも涼しい顔で生き残っていた。別名がドクイチゴ。そういう目で見ると、たしかに蛇苺の赤い色は相当に毒々しい。命名の由来は知らないが、べつに蛇が食べるからというのではなく、たぶん人々が蛇のように忌み嫌ったあたりにありそうだ。つまり、れっきとした苺の仲間なのに、苺とは見做されてこなかった。苺なのに苺ではないのだ。ここを踏まえて、作者は自分も蛇苺と同じように、人間なのに人間じゃないような気がすると韜晦(とうかい)している。人間の喩(ゆ)みたいだと、自嘲しているのである。枇杷男のまなざしは、たいていいつも暗いほうへと向いていく。性分もあるのだろうが、人間存在の根底に流れているものは、そんなに明るくないことを絶えず告知しつづけてきた表現には、ずしりと胸にこたえるものがある。なお、蛇足ながら蛇苺はまったくの無毒であり、勇気を出して食べた人によると「極めてまずい」のだそうである。『蝶座』(1987)所収。(清水哲男)


June 0561998

 ゆくりなく途切れし眠り明易し

                           深谷雄大

くりなくも旧友に出会った。……などと、普通「ゆくりなく」は「思いがけなく」といったような意味で使われる。「ふと」などより心情的色彩が濃い言葉だ。したがって、夢が「ゆくりなく」も途切れることはあっても、自然体の眠りについての言葉としてはそぐわない。眠りそのものには、眠っている人の意志や心が関与していないからだ。人は毎朝思いがけず目覚めているのではなくて、自らの心のありようとは無関係に起きているはずである。そのことを承知で、作者は自然に目覚めたのにも関わらず、眠りが「ゆくりなく」も早めに中断されたとボヤいている。理不尽と捉えている。ここが面白い。などと呑気に書いている私も、実はこのところよく思いがけない(ような)目覚めに出会う羽目になってきた。ひとえに年齢のせいだと思っているのだが、夜明け前直前くらいに目覚めてしまい、後はどうあがいても眠れなくなってしまうのだ。こいつは、かなり苦しいことである。老人の早起き。あれはみな、本人にとっては睡眠の強制執行停止状態なのだろう。となれば、老人の眠りに限っては「ゆくりなく」の使用がノーマルに思えてくる。「俳句界」(1998年6月号)所載。(清水哲男)


June 0461998

 雨あとの土息づくや茄子の花

                           松本一枝

蔵野市内の小学校の給食メニューに、今月が旬の食べ物として「茄子」があがっていた。昔は梅雨明け頃だったように思うが、今ではそういうことになってきたようだ。それはともかく、茄子は葉の蔭に淡い紫色の花をつける。よく見ると、なかなかに可憐で美しい花である。花になんて目もくれなかった少年時代に、この花だけには「ちょっと、いいな」と思った記憶がある。私の花への初恋だ。茄子は水をたくさんほしがる植物だから、さぞかし梅雨の季節は嬉しい気持ちだろう。作者にその知識があるかどうかは別にして、句は見事に雨上がりの後の茄子の花の美しさを表現しきっている。土が「息づく」と見えるのも、ひとつにはそこに茄子の花が咲いていたからである。野菜の花とは、総じて可憐であり命は短い。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます