依然微熱と断続的な腹痛。水ばかり飲んでいる。カズが外されても何の感想もない。




1998ソスN6ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0361998

 おとり鮎息はずむなる休ませる

                           瀧井孝作

慢じゃないが、鮎釣りの経験はない。気分が良さそうだなとは思っているが、チャンスに恵まれずに来てしまった。したがって、友釣りの何たるかも知らない。私と同じように友釣りを知らない読者のために、作者自身による解説を書きとめておく。「鮎は、きれいな水の中の石に生える美しい水垢をたべて育つので、鮎は、その食糧のある場所を、常に守つて見張つてゐて、他の鮎がその場所に近づくと、体当りでブツかつて、追ひはらふ習性があります。友釣は、この習性を利用して、一尾の鮎を囮に使つて、釣るのです」。そして、この囮の鮎には釣針のついた釣糸が結びつけられているのだから、体当たりした鮎が釣針に引っ掛かる仕掛けだ。引っ掛かる鮎も哀れだが、囮役も大変だ。引き上げてみると息をはずませている。しばらく休ませてやろうという作者の優しさに、句の味わいがある。だったら、友釣りなんかはじめからしなければいいのに。そんな声も聞こえてきそうだ。二日酔いの亭主に向かって「何もそんなになるまで飲まなくても……」というどなたかのご意見に似ている。『海ほほづき』(1960)所収。(清水哲男)


June 0261998

 ふるさとはよし夕月と鮎の香と

                           桂 信子

さしぶりの故郷での、それもささやかな宴の席での発句だろう。たそがれどき、懐しい顔がそろった。それだけでも嬉しいのに、ふるさと名物の新鮮な鮎が食膳にのぼり、ようやく暗くなりはじめた空には、見事な夕月までがかかっている。文句無しの鮮やかな故郷賛歌だ。ちなみに、作者は大阪生まれである。関西には「はんなり」という色彩表現があって、私には微細な感覚までは到底わからないのだが、この夕景はなんとなく「はんなり」しているように思われる。京都在住の詩人の天野忠さんも、好んで使われた言葉だった。ところで、この句はこれでよしとして、私も含めた読者がそれぞれの郷里をうたうとすれば、どのようなことになるのだろうか。わが故郷には、残念ながら、食膳に乗せて故郷を表現できるこれといった物はなさそうだ。『月光抄』(1938-1948)所収。(清水哲男)


June 0161998

 看護婦にころがされつゝ更衣

                           小山耕一路

来が無精者だから、意識して更衣(ころもがえ)などはしたことがない。東京あたりでは、今日から子供たちの制服がかわって、そんな様子を眺めるのはとても好きだ。勝手なものである。ところで、入院患者にも衣更があるとは、この句を読むまでは知らなかった。想像の外であった。あまり身体の自由が利かない患者は、みなこのようにころがされて夏用の衣服に着がえるのだろう。笑っては申し訳ないが、つい、クスクスとなってしまった。看護婦も大変なら、患者も大変だ。やがて夏物にあらたまったときに、作者はとてもいい気持ちになっただろう。昔から衣更には佳句が多い。なかでも蕪村の「御手打の夫婦なりしを更衣」は有名だが、私は採らない。フィクションかもしれないけれど、あまりに芝居がかっていて陰惨だからである。(清水哲男)




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