刑事免責への動き。すなわち仲間を売ることの奨励でもあるわけで、イヤな感じだ。




1998ソスN5ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2751998

 シャボン玉吹く東京の風にのせ

                           小山 遥

者(女性)は高松市在住。履歴を見ると、生まれも育ちも高松だ。高松と聞くと、いつも私は故人となった詩友の佃学を思い出してしまう。彼は高松の田舎性を慨嘆しつつも、結局は愛して止まなかった。それはともかく、この句は高松から上京した際の寸感だろう。シャボン玉での遊び相手はお孫さんだろうか。ひさしぶりの邂逅を楽しんでいる場面だが、ここで作者が相手の存在をふっと瞬間的に忘失しているところに、句の輝きが読み取れる。東京という他郷の風にのせて、シャボン玉を吹いている自分という存在の不思議に、作者の気持ちが溶けこんでいる。旅先での句は世間に数えきれないほど多いが、他郷での発見を欲張りすぎる傾向があり、その点、この句は欲張っていない分だけ、逆に心象がよく伝わってくる。私のような東京人にも、あらためて「東京の風」を新鮮に思い起こさせてくれた佳句である。『ひばり東風』(1998)所収。(清水哲男)


May 2651998

 考へがあつての馬鹿を冷奴

                           加藤郁乎

奴だけではあるまい。句集には並べて「別の顔みせてやらばや冷し酒」とあるから、ちゃんとお神酒がついている。考えがあって、よかれと思って、意図的に馬鹿をやってみせたのではあるが、どうやら誰にもせっかくの意図が通じなかったようだ。本当の分別なし、馬鹿に見られたらしいという憤激の内での冷奴。故意に馬鹿を演じたのだから、みんなから馬鹿にされて本望のはずなのだが、そこがそうはいかないところに人間の辛さがあり面白さもある。誰かその場に一人くらい具眼の士がいて、言わず語らずのうちにわかってくれないと、にわか馬鹿の心はおさまらないのだ。にわか馬鹿の世界は、たいてい義理人情がからんでいる。だから「お前は偉いなあ」と、たとえば目で挨拶してくれるような義理や人情を期待するわけだ。それがそうではなかった。ぷいと、みんなと別れてしまった。で、乱暴な箸を冷奴に突き立てたってはじまらないのに、うーむ、悔しい。どうしてくれようか……。冷奴こそ、いい迷惑である。『初昔』(1998)所収。(清水哲男)


May 2551998

 香水やまぬがれがたく老けたまひ

                           後藤夜半

水の句といえば、すぐに草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」を思い出すが、誇り高き女性への近寄り難さを巧みに捉えている。草田男は少々鼻白みつつも、彼女の圧倒的な存在感を賛嘆するかたちで詠んだわけだが、夜半のこの句になると、もはや女性からのプレッシャーは微塵も感じられない。香水の香があるだけに、余計に相手の老いを意識してしまい、名状しがたい気持ちになっているのだ。ところで、この女性は作者よりも年上と読むのが普通だろうが、私のような年回りになると、そうでなくともよいような気もしてくる。同年代か、あるいは少し年下でも、十分に通用するというのが実感である。だったら「老けたまひ」は変じゃないかというムキもあるだろうが、そんなことはないのであって、生きとし生ける物すべてに、自然に敬意をはらうようになる年齢というものはあると思う。ただし、それは悟りでもなければ解脱でもない。乱暴に聞こえるかもしれないが、それは人間としての成り行きというものである。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)




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