北上では金子兜太さんに会えた。お元気でなにより。花巻への道では桐の花に賛嘆。




1998ソスN5ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2551998

 香水やまぬがれがたく老けたまひ

                           後藤夜半

水の句といえば、すぐに草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」を思い出すが、誇り高き女性への近寄り難さを巧みに捉えている。草田男は少々鼻白みつつも、彼女の圧倒的な存在感を賛嘆するかたちで詠んだわけだが、夜半のこの句になると、もはや女性からのプレッシャーは微塵も感じられない。香水の香があるだけに、余計に相手の老いを意識してしまい、名状しがたい気持ちになっているのだ。ところで、この女性は作者よりも年上と読むのが普通だろうが、私のような年回りになると、そうでなくともよいような気もしてくる。同年代か、あるいは少し年下でも、十分に通用するというのが実感である。だったら「老けたまひ」は変じゃないかというムキもあるだろうが、そんなことはないのであって、生きとし生ける物すべてに、自然に敬意をはらうようになる年齢というものはあると思う。ただし、それは悟りでもなければ解脱でもない。乱暴に聞こえるかもしれないが、それは人間としての成り行きというものである。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


May 2451998

 午後からは頭が悪く芥子の花

                           星野立子

い日の午後、誰しもがいささかボーッとなってしまう状態を、「頭が悪く」と表現したところが面白い。このとき、作者に見えている芥子(けし)の花は何色だったろうか。辟易するような暑気と釣り合うということになれば、やはり赤い大輪だろう。花それ自身も、なんだかボーッとしているように見えるからだ。句が作られたのは、戦後間もなくの時期らしい。あの頃は、そこらへんに芥子が咲いていたものだ。美空ひばりの「私は街の子」にも、芥子は東京あたりでも平凡に「いつもの道に」咲いているように歌われている。ところが、この植物は阿片の原料になることから、現在では栽培が禁止されており、めったに見られなくなってしまった。私が頼りにしている花のカタログ集・長岡求監修『野の花・街の花』(講談社・1997)にも載っていないという情けなさ。「どう咲きゃいいのよ、この私……」と歌ったのは、やはり芥子の花が出てくる「夢は夜ひらく」の藤圭子であったが、いまでは日本のどこかで、きっと芥子のほうこそが「どう咲きゃいいのよ」と見悶えしていることだろう。『続立子句集・第二』(1947)所収。(清水哲男)


May 2351998

 麦の秋朝のパン昼の飯焦し

                           鷹羽狩行

だちゃんとしたトースターも、ましてや電気炊飯器もなかった時代。パンを焦したり飯を焦したりしているのは、新婚後間もない妻である。そんな新妻の失敗を仕様がないなと苦笑しながらも、作者はもちろん新妻を可愛く思っているのだ。おそらく窓外に目をやれば、黄色に熟した麦畑が気持ち良くひろがっていたのであろう。初夏の爽快な季節感も手伝って、結婚した作者の気持ちは浮き立っている。新婚の女性の気持ちはいざ知らず、結婚したてのたいがいの男は、このように妻の失敗を喜んで許している。そこが実は、その後の結婚生活のそれこそ失敗の元になるのだ……などと、余計なことを言い立てるのは愚の骨頂というものであって、ここはひとつ静かに微笑しておくことにしたい。ところで、立派なトースターや炊飯器の備わっている現代の新妻には、どんな失敗があるのだろうか。……と、すぐにまた野暮なことを言いかける我が野暮な性分。『誕生』(1965)所収。(清水哲男)




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