「文藝春秋」6月号に辻征夫が「余白句会」について書いている。みんな下手だなあ。




1998ソスN5ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1551998

 月残す浅草の空まつり笛

                           杉本 寛

草の祭といえば、江戸三代祭の一つ三社祭だ。現在は五月十七・十八日に近い金曜日(今年は本日)に神輿御魂入れ、土曜日には町内神輿連合渡御、日曜日には本社神輿渡御が行われる。この句は、土曜日か日曜日か、祭の喧騒からちょっと離れたところでの作品だろう。月もおぼろな初夏の宵、浮世絵にでもしたいようなきれいな句だが、1971年の作句。私は長いこと東京に住みながら、まだ一度も三社祭を見たことがない。いつだったか、見に行こうと友人を誘ったら、彼は「止めとけよ、地下鉄の駅を出るのも大変なんだから」とニベもなかった。で、それっきり……。倉田春名に「地下鉄を出るより三社祭かな」がある。ところで現代の「祭」一般は夏の季語であるが、古くは「祭」といえば京都の賀茂祭(葵祭)のことだけをさした。古句を読むときは、要注意である。『杉本寛集』(俳人協会・1989)所収。(清水哲男)

[三社祭情報はここ]今年の神輿の宮出しは十七日午前六時から。今回から、町内を練り歩く三基の神輿の現在位置が、刻々と表示されるそうです。その他、浅草情報の豊富なベージ。


May 1451998

 あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ

                           種田山頭火

頭火のファンには、圧倒的に女性が多いという。男でなければなし得ぬ「放浪」に、ほとんどフィクションに近いロマンを感じるためではなかろうか。昭和七年(1932)五月、下関に向かう道での句。どこまでもつづく金鳳花の道に、作者は旅にある喜びを全身に感じている。「人間が天然のドラマのなかに繰り込まれている」(金子兜太)ようだ。美しい句である。と同時に、山頭火は当然(大地主の息子ではあったが、農村の出だ)この季節が農民繁忙のときと知っており、この句に添えて「五月は物を思ふなかれ、せんねんに働け、というやうなお天気である、かたじけないお日和である、香春岳がいつもより香春岳らしく峙(そばだ)つてゐる」と書いている。「かたじけない」とは、天に感謝する思いもあるが、この好天に身を粉にして働いている人々に対する気持ちも込められているはずだ。『定本山頭火全集』(春陽堂書店)他に所収。(清水哲男)


May 1351998

 はつ夏の空からお嫁さんのピアノ

                           池田澄子

家の「お嫁さん」と読んでは面白くない。それでは谷内六郎ばりの世界になってしまう。季節は、息子に嫁を迎え、二世帯同居となったはじめての夏、つまり「はつ夏」である。まだ姑という立場がピンとこない作者は、このときよい天気に誘われて、庭先にでも出ているのだろう。と突然、開け放たれた二階の窓から「お嫁さん」の弾くピアノの音が聞こえてきた。長年住み慣れた家であるが、これまでにピアノの音などしたことはない。それが今、我が家で鳴っているのはまぎれもなくピアノである。作者は、そのいわば「異音」に反応している。すなわち「異音」の源にいる「お嫁さん」に反応している。だから「お嫁さん」と突き放し、まだ家人扱いできないのだ。寒くもなく暑くもない快適な陽気のなかで、作者は「異音」に心を奪われ、いつもの初夏を味わえていない図である。コレマデドオリニハイカナイという予感、そして覚悟。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)




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