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May 1051998

 母の日の常のままなる夕餉かな

                           小沢昭一

集『変哲』より、69年5月作。あの小沢昭一である。評者にとっては困った時の「変哲(小沢昭一の俳号でもある)」頼み。変哲の句を出せば安心できるのだ。「母の日」といっても特別なことをするというわけではない(大体そんなもの昔はなかった)、いつもと同じ夕餉につき黙々と食べる。この句には見えない母が曲者ですな。同居の老母かもしれないし、子供たちの母、すなわち作者の老妻かもしれない。その方がむしろ味わい深い。「母の日」は、今年は本日十日。常日頃、92歳の母を老人ホームに入れたきりで、電話一本かけもしない親不幸息子の評者であるが、今年はお見舞にでも行こうかしら。(井川博年)


May 1452000

 母の日や塩壺に「しほ」と亡母の文字

                           川本けいし

の場合は「亡母」も「はは」と読むほうがよいだろう。母の日。亡き母を思い出すよすがは、むろん人さまざまだ。作者はそれを、母親が記した壺の文字に認めている。子供のころから台所にある、ごくありふれた壺に書かれた文字が母のテであったことを、いまさらのように思い出している。「しほ」という旧仮名づかいも懐しい。現代のように容器にバラエティがなかった昔、誰もが実によく分別するための文字を書いていた。そうしておかないと、塩壺も砂糖壺も味噌壺も、どれがどれやら判別がつかなくなってしまうからだ。私の祖母の年代までは、どこの家庭でもそうしていた。そのころの女性の失敗談に、よく塩と砂糖を間違えたという話が出てくるが、おおかたは壺の文字を確認せずに、勘に頼ってしまったせいである。そんな馬鹿な、見ればすぐにわかるじゃないか。そう思うのは現代人の幸福(かつ浅薄)なところで、精製方法が雑ぱくだった時代には、ちょっと見たくらいで「塩」と「砂糖」の区別などつきようもなかったのだ。母親が亡くなり、「しほ」の文字だけが残った。作者は、あらためて台所でしみじみと見入っている。なによりの追悼であり、なによりの遺産である。『俳句歳時記・新版』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)


May 1252002

 母の日や主婦の結核みな重く

                           山本蒼洋

んという哀しい句だろう。作者は医者だろうか。たしかに、こういう時代があった。日本での結核患者は明治に入ってから増えはじめ、第二次世界大戦中にピークを迎えたという。社会の近代化に伴い、労働条件、都市環境、衛生施設、栄養面での劣悪な条件が、流行の素地となった。大家族のなかで誰よりも早く起き、一日中コマネズミのように働き、誰よりも遅くまで起きていた多くの主婦たちは、これらの条件の悪さをことごとく背負って生きていた。毎日の炊事洗濯だけでも、大変な労働だったのだ。しかも、少しくらい身体に不調を覚えても休めなかった。休養は許されなかった。これでは、とても早期発見などかなうわけがない。彼女らが医者に診てもらうのは、もはや気力を振り絞ってもどうにも身体が動かなくなってからだったので、当然のことながら病状は既に重く進行していた……。作者が医者だとしても、もはや手遅れに近い病状の主婦を前にして、おそらく言うべき言葉はなかっただろう。「何故こんなになるまでに、医者に診せなかったのか」などとは、言っても甲斐なき世の中の仕組みだったからだ。結核の流行は、社会が生みだしたものなのである。この句は、さりげない表現ながら、そんな世の中の仕組みを激しく憎んでいる。現代では、開発途上国に蔓延しているという。今日という日に結核に限らず、社会のせいで哀しい「母の日」を迎えている人たちは、世界中に数えきれないほど存在していることを忘れないようにしよう。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


August 2082006

 稲妻や童のごとき母の貌

                           恩田秀子

語は「稲妻」、遠方で音もなく光ります。窓脇にベッドが置いてあります。病院の一室かもしれません。窓の外ではすでに、暗闇が深まりつつあります。ベッドに横たわる母親の顔に一瞬、窓の外から光が入り込んできます。その光に照らし出された老いた母親の顔が、子どものように見えた、とそのような句です。時の流れと、空間の広がりを、同時に感じさせる静けさに満ちた句です。母子の守り守られる関係というものは、気がつけば、いつのまにか逆転しているものです。時の流れとともに、子は成長の傾斜を上ってゆき、その傾斜のどこかの地点で、老いの傾斜を下ってゆく親とすれちがうのです。かつて、若く、いきいきと振舞っていた母親の姿が思い出されます。そのそばには、幼く、頼りなげな自分の姿があります。そのころを懐かしむ思いが、今は童のように見える母親の顔にかぶさってゆきます。「稲妻」という言葉は、雷光が稲を実らせるという信仰からきたものと言われています。つまり、光が稲の夫(つま)であるということです。そうであるならば稲妻とは、肉親の情が遠方から、はるばる光を送り届けているということになります。同じ作者の作品として、「母の日や童女のごとき母連れて」「残菊やなほ旺んなる母の齢」など。『俳句入門三十三講』(1986・講談社学術文庫)所載。(松下育男)


May 1152014

 母の日の祖母余所行着をすぐに脱ぐ

                           池田澄子

日は母の日。『新日本大歳時記』によると、もとは米国ウェブスターに住むアンナ=ジャービスが母を偲ぶため白いカーネーションを教会の人々に分けたのが始まりで、1914年5月にウィルソン大統領によって母の日と定められた、とあります。掲句は作者が少女の頃でしょう。祖母が外出先から帰ってきて、余所行着(よそゆき)をすぐに脱ぎ、大事に仕舞ってから普段着に着替えるその素早さを記憶しています。祖母にとって母の日は名ばかり。かつての母は、手を動かしながら家中をくまなく動き回っていました。家電が流通する以前の暮らしでは、衣・食・住のすべてが手間ひまかかる手仕事です。繕い物の針仕事、早朝の煮炊き、はたき・ほうき・ぞうきんがけ。手を動かしながら次の手仕事を見つけ 、それがまた、次の動きにつながります。その経験の積み重なりがおばあちゃんの知恵袋を作っていったのでしょう。掲句の祖母が「余所行着をすぐに脱ぐ」のは、普段着という仕事着に着替え、家庭のプロフェッショナルへと切り替わるスイッチのオンなのです。これぞ主婦のプロ。その記憶を孫に伝えています。かつての少女は、おそらく祖母の齢を越えて、その素早い替わり身を受け継いでいるのでしょう。なお、中七のほとんどを漢字にしたのは外出を暗示した工夫と読みました。『池田澄子句集』(ふらんす堂・1995)所収。(小笠原高志)


May 0852015

 口あけて顔のなくなる燕の子

                           大串若竹

は春に渡来して人家とか駅舎とか商店街の軒先とかに巣を作って産卵し育て、秋には南方に去る。その尾は長く二つに別れた、いわゆる燕尾である。人間に寄り添って巣を作るので燕の子にも一段と親しみを覚える。毎日その成長を見上げては楽しんでいるのだが、子は四五匹ほど居るので生存競争も激しそうだ。精一杯口をあけて顔中を口にして、親鳥の餌をねだる。ねだり負ければ成長に負ける事になる。それを見上げる人間も口をいっぱいに飽けて眺める事とはなる。<風鈴の百の音色の一つ選る><甚平やそろばん弾く骨董屋><母の日に母に手品を見せにけり>なども所収される。『風鈴』(2012年)所収。(藤嶋 務)




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