政策減税は「中小企業」「住宅」が柱だそうな。選挙に向けての嘘は聞き飽きた。




1998ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2341998

 蜂に蜜我等にむすび林檎咲く

                           矢島渚男

檎の花を見たことがない。正確に言えば、見たはずなのだが記憶にない。敗戦後、林檎がまだ貴重品だったころ、山口県で百姓をはじめた父が、京都の「タキイ種苗」あたりから取り寄せたのだろう。庭に、林檎の種を何粒か蒔いた。一本だけが小学生の背丈ほどにひょろひょろっと生長し、小さな実を一つだけつけた。だから、当然花は咲いたのであり、私が見なかったはずはない。秋になって、一つの林檎を家族四人で分けて食べた。ひどく固くて酸っぱかった記憶のほうはある。後年、林檎の研究家にこの話をしたら、当時としては林檎生産の南限記録だろうと言われた。新聞社に知らせれば、絶対に記事になったはずだとも……。作者は信州の人。この春もまた、可憐な林檎の花盛りを堪能されていることだろう。(清水哲男)


April 2241998

 春の蔵でからすのはんこ押してゐる

                           飯島晴子

からないといえば、わからない。だが、ぱっと読んで、ぱっと何かが心に浮かぶ。そして、それが忘れられなくなる。飯島晴子の俳句には、そういうところがある。一瞬にして読者の想像力をかきたてる起爆剤のようだ。たとえば、ある読者はおどろおどろしい探偵小説の一齣と思うかもしれないし、また別の読者は昔の子の無邪気に遊ぶ姿を想像するかもしれない。前者は「春の蔵」の白壁の明るさに対して「からす」に暗さや不吉を読むからであり、後者は「からすのはんこ」に子供らしい好奇心のありかを感じるからである。もちろん、作者自身の描いたイメージは知るよしもないけれど、知る必要もないだろう。よく読むと、この句では主体も客体も不明である。いったい誰が「からすのはんこ」を押しているのだろうか。はっきり見えるのは「春の蔵」だけなのであって、結果的に作者は「春の蔵」の存在感だけを感じてくれればよいと作ったのかもしれない。何度も読んでいるうちに、そう結論づけたくもなってきた。しかし、彼女の句はそんな結論なんかいらないと言うだろう。『春の蔵』(1980)所収。(清水哲男)


April 2141998

 暗いなあと父のこゑして黄沙せり

                           小川双々子

沙(こうさ)の定義。春、モンゴルや中国北部で強風のために吹き上げられた多量の砂塵が、偏西風に乗って日本に飛来する現象。気象用語では「黄砂」、季語では「霾(つちふる)」と言う。どういうわけか、最近ではあまり黄砂現象が見られなくなってきた。かつての武蔵野では、黄砂に加えて関東ローム層特有の土埃りが空に舞い上がり、目を開けていられなくなるような時もあったほどだ。この句の「暗いなあ」は、そうした物理的な意味合いも含むけれど、作者にはそれがもっと形而上的な意味としても捉えられている。何気ない父親のつぶやきが、自然のなかに暮らす類としての人間の暗さに照応しているように思えたのである。暗い春。春愁などという言葉よりも、一段と深く根源的な寂しさを感じさせるこの作品に、双々子俳句の凄みを感じさせられる。『囁囁記』(1981)所収。(清水哲男)




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