100球が限度という先発投手。ホンマかいな。150球投げさせる野球を考えるべきだ。




1998ソスN4ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2141998

 暗いなあと父のこゑして黄沙せり

                           小川双々子

沙(こうさ)の定義。春、モンゴルや中国北部で強風のために吹き上げられた多量の砂塵が、偏西風に乗って日本に飛来する現象。気象用語では「黄砂」、季語では「霾(つちふる)」と言う。どういうわけか、最近ではあまり黄砂現象が見られなくなってきた。かつての武蔵野では、黄砂に加えて関東ローム層特有の土埃りが空に舞い上がり、目を開けていられなくなるような時もあったほどだ。この句の「暗いなあ」は、そうした物理的な意味合いも含むけれど、作者にはそれがもっと形而上的な意味としても捉えられている。何気ない父親のつぶやきが、自然のなかに暮らす類としての人間の暗さに照応しているように思えたのである。暗い春。春愁などという言葉よりも、一段と深く根源的な寂しさを感じさせるこの作品に、双々子俳句の凄みを感じさせられる。『囁囁記』(1981)所収。(清水哲男)


April 2041998

 すかんぽのひる学校に行かぬ子は

                           長谷川素逝

原白秋に「すかんぽの咲く頃」という童謡があり、歌い出しは「土手のすかんぽジャワ更紗……」である。すかんぽ(酸葉)は、歌の通りに、昔は川の土手や野原などに密集して生えていた。歌は小学生たちの学校への行き帰りの情景を生き生きと描いたもので、句はこの童謡を踏まえていると思われる。詠まれている子は、今で言う登校拒否児とは違って、目覚めてからふとサボりたくなったのだろう。家にいると叱られるので、一応登校するふりをして近所の河原で所在なく時が過ぎるのを待っているのだ。こんなことなら、学校に行ったほうがよかったかな。そんな後悔の念もわいてくる。しかし、春の時間は遅々として進んでくれない……。そして作者にも、同様な思い出があるのかもしれなく、むしろ微笑してそんな子供を眺めている。なんだか、大人でも仕事をサボりたくなるような、春の真昼時だ。最近では「すかんぽ」と言っても、知らない人が増えてきたのには寂しい気がする。(清水哲男)


April 1941998

 玉のせるかに春眠の童の手

                           上野 泰

野泰の春眠の句と言えば、先頃大岡信さんも「折々のうた」で取り上げていた「春眠の身の閂を皆外し」が有名だ。義父にあたる虚子が、第一句集『佐介』の序文に「新感覚派。泰の句を斯う呼んだらどんなものであらう」と書いているが、たしかに仕掛けのある句を多く詠んだ人だった。しかし、あえて横光利一などの事例を持ち出すまでもなく、「新感覚」は面白いと思っても、すぐに飽きてしまうところがある。それに比べれば、凡庸とも思えるこの句のほうが、長持ちがする。このあたりが、俳句に限らず文学の奥深いところであって、もとより創作者にとって「新感覚」は必要条件なのだが、それがともすると感覚倒れになってしまうケースがあるから、とても怖い。シャープな人ほど、転倒しやすい。ま、そんなことはともかくとして、この句に込められた父性ならではの滋味を、じっくりと味わっていただきたい。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)




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