季語が春眠の句

April 191998

 玉のせるかに春眠の童の手

                           上野 泰

野泰の春眠の句と言えば、先頃大岡信さんも「折々のうた」で取り上げていた「春眠の身の閂を皆外し」が有名だ。義父にあたる虚子が、第一句集『佐介』の序文に「新感覚派。泰の句を斯う呼んだらどんなものであらう」と書いているが、たしかに仕掛けのある句を多く詠んだ人だった。しかし、あえて横光利一などの事例を持ち出すまでもなく、「新感覚」は面白いと思っても、すぐに飽きてしまうところがある。それに比べれば、凡庸とも思えるこの句のほうが、長持ちがする。このあたりが、俳句に限らず文学の奥深いところであって、もとより創作者にとって「新感覚」は必要条件なのだが、それがともすると感覚倒れになってしまうケースがあるから、とても怖い。シャープな人ほど、転倒しやすい。ま、そんなことはともかくとして、この句に込められた父性ならではの滋味を、じっくりと味わっていただきたい。『佐介』(1950)所収。(清水哲男)


April 202009

 朝寝して敗者に似たる思ひあり

                           菅原けい

語は「朝寝」で「春眠」に分類。父が早起きの性だったことと農家だったことで、子供の頃から早起きだった。起床は遅くとも午前六時。それ以上寝ていると、父に容赦なく布団をひっぺがされた。それが性癖となってしまい、夜明け前に起きるのはへっちゃら。と言うよりも、太陽が顔を出す前に自然に目がさめてしまうようになったのである。おかげで、後年ラジオの朝番組のときには大いに役立った。しかし、何かの拍子に、起きると外が少し明るい朝もある。そんなときは、この句の作者のようにみじめな気分になってしまう。「ああ、シッパイした」などとつぶやいたりする。なんとなく損したような気分なのだ。この句はたぶんそんな早起き人間にしかわからないだろうが、少しくらい朝寝したからといって、別に生活に支障があるわけじゃなし、どうしてみじめな気持ちになってしまうのか。自分の意思とかかわりないところで、性癖が崩れることに漠然とした不安を覚えるからなのだろうか。三十代でやむをえずフリーという名の失業者になったときには、早起きの自分にいささか辟易させられた。早く起きたってすることもないので、それまでなら出勤する時間まで何もせずに過ごしていたのだが、これがなかなかに辛かった。早起きは習い性だったけれど、朝の時間に読書とか何かをする習慣はなかったからだ。たまらなくなったので、机の前に次の江戸狂歌を大きく書いて貼っていた時期がある。「世の中に寝るほど楽はなかりけり 浮世の馬鹿は起きてはたらく」。座右の銘のつもりであった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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