エリツィン氏訪日。身体的にも政治的にも苦しい男が、ひたすらにカネを求めて…。




1998ソスN4ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1841998

 シクラメンたばこを消して立つ女

                           京極杞陽

近はクリスマス頃に出回るので、シクラメンを冬の花と思っている人もいるようだが、本来は春の花だ。わが「むさしのエフエム」の窓辺でも、小さいながらいまを盛りと咲いている。句は、喫茶店の情景だろう。まだ人前で喫煙する女性が珍しかった時代(1941年・昭和16年)の句で、華麗なシクラメンとの取り合わせが、いかにも「大人の女」を連想させる。今風に言えば、美貌のキャリアウーマンが煙草を消してスッと席を立ったというところか。往年の人気雑誌「新青年」の小説の一シーンみたいでもある。いかにも格好がよろしい。ところで、喫煙の是非はおくとして、近頃は煙草を吸う若い女性が非常に目立つようになってきた。吸いながら、街頭を闊歩している。ひところのパリみたいだが、残念なことには、ほとんどの女性が煙草に似合っていない。吸い方がなってない。だから、みんな煙草に飢えたニコチン中毒患者のように見えてしまう。あの不格好な吸い方だけは、何とかならないものだろうか。『くくたち上巻』(1946)所収。(清水哲男)


April 1741998

 この部屋に何用だつけ春の昼

                           渡辺善夫

しもが心当りのある体験だろう。老化現象ではないかという人もいるが、どうであろうか。だとすれば、私には小学生の頃から、よくこういうことが起きたので、物忘れに関しては天才的に早熟だった(笑)ことになる。何をしにこの部屋に来たのか。忘れてしまったときの対策は、私の場合、ひとつしかない。もう一度、元いた場所に戻ってみることである。双六の振り出しに戻るようにしてみると、たいがい思いだすことができる。最近は、それでも思いだせないときもままあるが、この場合はやはり老化現象かもしれない。でも、何かを忘れてしまうことも、たまには必要だ。というよりも、人間は常に何かを忘れつづけていないと生きていけない動物ではあるまいか。誰が言ったのか、それこそ忘れたけれど、ニワトリは三歩歩くと何もかも忘れてしまうのだそうだ。時々、ニワトリになりたくなる。「俳句文芸」(1998年4月号)所載。(清水哲男)


April 1641998

 菜の花の中を浅間のけぶり哉

                           小林一茶

風駘蕩。ストレス・ゼロの句。現代人も、こんなふうに風景を見られたら素晴らしいでしょうね。そして、こんなふうにうたうことができたとしたら……。浅間は、大昔から歌や物語に登場する名山です。が、広田二郎さんという国文学者の調べたところでは、『新古今集』の在原業平以来、例外なく信濃の住人以外の人が、この山をうたってきたのだそうです。つまり、地元の人としてうたったのは一茶がはじめてということで、文学史的にも価値のある一句ということになります。浅間の煙も地元の人にとっては、日常的にすぎてうたう気になどなれなかったのでしょうか。それにしても、最近は菜の花畑が見られなくなりました。信州にしても、もうこんなに広大な畑はないでしょう。どこかに残っていないかと思っていた矢先、昨日届いた「フォトやまぐち」(山口県広報連絡協議会)に、見渡すかぎり菜の花ばかりという秋穂町の風景写真が載っていました。山口県はわが故郷。トウダイモトクラシ。(清水哲男)




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