朝日新聞にインタビュー記事が載った。あんなにトシをでっかく表示されるとは…。




1998ソスN4ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1341998

 靴裏に都会は固し啄木忌

                           秋元不死男

月十三日は石川啄木の忌日。したがって「啄木忌」は春の季語。1912(明治45)年、不遇と貧困のうちに二十七歳の若さで病没した。句は、都会での成功を夢見て破れた啄木の無念を想い、都会で生きる難しさを鋪道の固さで象徴している佳句だ。ところで、このように「忌日」を季語とすることについて、かつて金子兜太が次のように反対している。「人の死んだ忌日を、季語にしてしまうやり方は、不埒千万、季語そのものさえ冒涜するものと考えている。(中略)故人の業績や人がらをしのばせるのが目的ならかまわないが、季節までこれで連想させようとするのは行き過ぎである。俳人がぜんぶ戸籍係になっても、とても季節まで記憶できるものではない」(KAPPA BOOKS『今日の俳句』1965)。その通りだと、私も思う。句集を読んでいて、いちばん困るのが「……忌」である。季節もわからないし、第一「……」の部分がわからないので解読が不可能となる。たとえば太宰治の「桜桃忌」(6月19日)には季節感があるのでまだしも、芥川龍之介の「我鬼忌」(7月24日)になると、すぐに芥川の命日だと反応し、しかも夏の季語だとわかるのは、もはや特殊な教養人に限られてしまうのではあるまいか。(清水哲男)


April 1241998

 春たのしなせば片づく用ばかり

                           星野立子

を開けたほうが暖かく感じる。そんな日がつづくと、洗濯や掃除など、主婦の仕事は大いにはかどる。はかどることが、また次の用事を片づけることに拍車をかけてくれる。洗濯や掃除といっても、立子の時代には洗濯機や掃除機があるわけではなし、主婦は大変であった。とくに作者の場合は、主婦業の他に、俳人としての仕事もあったわけで、ついつい先伸ばしにしていた「用」も、いろいろとあったことだろう。しかし、億劫に思っていた「用」も、やりはじめてみれば何のことはない。簡単にすんでしまう。それもこれもが、この明るい季節のおかげである。こういうことは、主婦にかぎらず、もちろん誰にでも起きる。春はありがたい季節なのだ。地味な句だが、季節と人間の関係をよくとらえていて卓抜である。『続立子句集第二』(1947)所収(清水哲男)


April 1141998

 桜散る個々に無数に社員踊り

                           村井和一

ささかタイミングを失した花見の会。散りゆく桜の下で、作者は大いに酩酊しているのだろう。「無数」にいるわけもない仲間の社員たちが、次々に勝手に(「個々に」)踊る姿が「無数」に見えるのも、年に一度の花見ならではのイリュージョンである。この統一感のない今宵の宴を、作者は好もしいとも思い、他方ではサラリーマンとして生きていることの寂しさを噛みしめる場ともとらえている。明日からは、また整然たる秩序のなかで、みんな働くのだ。飲むほどに酔うほどに、落花は「無数」とおぼしきほどに激しく、次第に「個々の」寂寥感も募ってくるようだ。古人曰く、「散るさくら残るさくらも散るさくら」と……。サラリーマンの哀歓を詠んだ句は多いが、なかでも異色と言うにふさわしい作品である。(清水哲男)




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