April 101998
春宵や自治会の議事もめて居り
酒井信四郎
まだ子供が小さかった頃、地域の方々にドッジ・ボールや運動会やお祭りで三人の娘たちがお世話になった。女房に尻を叩かれ自治会のお手伝いをしぶしぶ引き受けたことがある。議事は延々深夜に及んだ。最後に長老が一言、「こりゃあ、明日の晩、もう一度やるべえ」。なんとも楽しげに一同が賛成する。お茶をなん杯も飲み、漬物をつまみながら。何でも早く事を済ますのがいいわけではなさそうだ。若造の私ごとき短慮ではついていけない。もう一句、「国訛りさざめく春の県人会」。新潟小千谷生まれの元郵便局長さん、当年とって九十歳。『有峰』所収。(八木幹夫)
April 091998
東京を蛇の目に走るさくらどき
澁谷 道
この人(女性)の句は難しい。自作について「自らが吐いた息のかたち」と述べている文章があり、まことにもって「息のかたち」のように、見えにくいのである。見えにくいが、しかし、大いに気になる句の多い人だ。この句もそのひとつだが、瞬間、何が走るのかがまずわからない。考えているうちに頭痛がしてきたので、冷蔵庫からビールを引き抜いてきた。そこで、ほろ酔いの解釈。「蛇の目」は同心円を指し、このことから大小二つの同心円を持つ舞台のことを「蛇の目回し」という。つまり、内側と外側の舞台を逆にまわしたりと、時間差をつけられるわけだ。そこで、作者は東京の環状線である山手線に乗っているのだと、ほろ酔い気分が決めつけた。沿線のあちこちには桜が咲いており、車窓から見ていると、舞台の「蛇の目回し」のように見える。電車は「蛇の目回し」さながらに、各所の桜を次々に置きざりにして走りつづけるのだからだ。なんともはや、せわしない東京よ。……という解釈は如何でしょうか。反論大歓迎です。『素馨集』(1991)所収。(清水哲男)
April 081998
囀やにんげんに牛集まつて
中田尚子
広々とした牧場の光景だ。空には鳥(雲雀だろうか)の声があり、草の上には人なつこく寄ってくる牛たちがいる。すべて世はこともなし。のどかな光景だ。私に牧場体験はないけれど、「にんげんに牛集まつて」の描写のやわらかさにホッとさせられる、とてもよい気分になれた。鳥も牛たちも、そして「にんげん」も、ここでは大きな自然のなかに平等に溶けてしまっている。そこが句の眼目だ。だからこそ「人間」ではなくて、この場合はあえて「にんげん」なのである。それこそ、この句は作者の「にんげん」性の良質さに支えられた表現にちがいなく、読後すぐに格別の好感を抱いたというわけ……。ところで、牛といえば、以前から気になっている別の句がある。「さびしさに牛をあつめて手品せり」というのだが、どなたの作品なのでしょうか。数年前に雑誌かなにかで読んで、大いに気に入っているのだけれど、迂闊にも作者の名前を忘れてしまいました。作風からしてまだ若い俳人だと思いますが、ご存じの方がありましたら、ぜひともご教示くださいますように。「俳句界」(1998年4月号)所載。(清水哲男)
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