April 061998
薮の小家より入学の児が出て来
村山古郷
薮蔭の小さな家。ふだんは人の気配もあまりないのだろう。老夫婦がひっそりと暮らしているような趣きの家だ。そんな家から、いきなりピカピカの一年生が飛び出してきた。この意外性に、作者は一瞬驚いたのだが、すぐになんだか嬉しい気持ちのわいてくる自分を感じている。この瞬間から、作者のこの小家に対する感じ方は、大きく変わったことだろう。今日は全国各地で入学式が行われる。石川桂郎に「入学の吾子人前に押し出だす」があるが、たぶん私も押しだされたクチである。内気を絵に描いたような子供だった。入学のとき、桜が咲いていたのかどうか、まったく覚えていない。敗戦の一年前のことで、入学後は警戒警報のサイレンが鳴るたびに、頭上にアメリカの偵察機や爆撃機を見ながら下校するというのが日常であった。すなわち、我らの世代は、小学校もロクに出ていないのである。(清水哲男)
April 051998
生娘やつひに軽みの夕桜
加藤郁乎
男女のことなどまだ何も知らない「生娘」が、夕桜の下でついつい少しばかり浮かれてしまっている様子に、作者はかなり強い色気を感じている。微笑ましい気持ちだけで見ているのではない。「つひに」という副詞が、実によくそのことを物語っている。江戸の浮世絵を見ているような気分にもさせられる。ということは、おそらく実景ではないだろう。男の女に対する気ままな願望が、それこそ夕桜に触発されて、ひょいと口をついて出てきたのである。「つひに軽みの」という表現にこめられた時間性が、この句の空想であることを裏づけている。もしも事実を詠んだのだとすれば、作者はずいぶんとヤボな男におちぶれてしまう。こういう句は好きずきで、なんとなく「江戸趣味」なところを嫌う読者もいると思う。ただし、上手い句であることだけは否定できないだろうが……。同じ作者の句「君はいまひと味ちがふ花疲れ」も、同じような意味で、かなり好き嫌いの別れそうな作品だ。桜も、なにかと人騒がせな花ではある。『江戸櫻』(1988)所収。(清水哲男)
April 041998
山笑ふみづうみ笑ひ返しけり
大串 章
春爛漫の風景句。たしかキャンディーズに「ほほえみ返し」という歌があったが、これはまたスケールの大きい「ほほえみ返し」だ。トリビアルで巧緻な仕組みの句もよいけれど、このように風景を大づかみにした作品も面白い。なによりも、読者としてはホッとさせられるところが心地よい。何事につけセコセコした世の中で、スケールの大きい句をつくることは非常に難しいと思うが、大串章はそれをいとも簡単な感じで作品化している。無技巧と見えるが、やはり長年技巧の波をかぶってきた作者ならではの境地の表出だろう。素人には、つくれそうでつくれない。プロの腕前と言うべきか。ちなみに「山笑ふ」は「春山淡冶にして笑ふが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として眠るが如し」(臥遊録)から、春の季題となった。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)
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