「春眠暁を覚えず」と孟浩然。「春はあけぼの」と清少納言。あなたはどちら派ですか?




1998ソスN3ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3031998

 花こぶし汽笛はムンクの叫びかな

                           大木あまり

夷の花は、どことなく人を寄せつけないようなところがある。辛夷命名の由来は、赤子の拳の形に似ているからだそうだが、赤ん坊の可愛い拳というよりも、不機嫌な赤子のそれを感じてしまう。大味で、ぶっきらぼうなのだ。そんな辛夷の盛りの道で、作者は汽笛を聞いた。まるでムンクの「叫び」のように切羽詰まった汽笛の音だった。おだやかな春の日の一齣。だが、辛夷と汽笛の取り合わせで、あたりの様相は一変してしまっている。大原富枝が作者について書いた一文に、こうある。「人の才能の質とその表現は、本人にもいかんともしがたいものだということを想わずにはいられない。……」。この句などはその典型で、大木あまりとしては「そう感じたから、こう書いた」というのが正直なところであろう。本人がどうにもならない感受性については、萩原朔太郎の「われも桜の木の下に立ちてみたれども/わがこころはつめたくして/花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ」(「桜」部分)にも見られるように、どうにもならないのである。春爛漫。誰もが自分の感じるように花を見ているわけではない。『火のいろに』(1985)所収。(清水哲男)


March 2931998

 浜近き社宅去る日のさくらかな

                           芦澤一醒

勤の季節。住み慣れた土地を離れるのは、なかなかにつらいものがある。職場を変わることよりも、生活の場が変わることのほうが数倍もしんどい。新しい土地への期待もなくはないけれど、もうこの潮騒ともお別れだし、折しも咲きはじめた桜の花も再び見ることはないだろうと、引っ越しの忙しい最中に、作者が感傷的になっている気持ちはよくわかる。サラリーマンの宿命といえばそれまでだが、しかし、この宿命は人為的なそれであるがゆえに、どこかに「理不尽」の感覚がつきまとってしまう。妻帯者ならば、なおさらだろう。セコい話になるが、私は転勤を恐れて、全国にネットを張っている会社には初手から入ろうとしなかった。そして、その考えは正解だった。……のだが、はじめて入った東京にしかオフィスのない理想の会社が、あえなく潰れてしまったのだから、正解はすぐに誤解となった。やっと次に入った会社も倒産の憂き目を見たし、いまではもう、この句の作者をむしろ羨ましいとさえ思う心境も、半分くらいはあるのである。俳誌「百鳥」(1997年7月号)所載。(清水哲男)


March 2831998

 出し穴を離れずにゐる地虫かな

                           粟津松彩子

阪から出ている「俳句文芸」というユニークな雑誌があって(残念ながら直接購読制なので、書店にはない)、ここに延々と連載されているのが「私の俳句人生」という、この句の作者への聞き書きだ(聞き手は、福本めぐみ)。それによると、揚句は作者が二十歳にしてはじめて「ホトトギス」の選句集に入った記念すべき作品である。句意は明瞭だから、解説の要はないだろう。二十歳の若者にしては、老成しすぎたような感覚にいささかの不満は残るけれど……。ところで、この連載の面白さは、松彩子の抜群の記憶力にある。その一端をお裾分けしておこう。「私は昭和五年から、ずっとホトトギス関係の句会には出席していたけど、その時分の句会費というと二十銭やった。うどん一杯、五銭の頃や、映画の一番高い大阪の松竹座が五十銭。僕は他には何にも使わないんやけど、月に何回かの句会と、たまの映画で、小遣はいつも使い果たしていたな。……」といった具合だ。松彩子は、今年で八十六歳。尊敬の念をこめて言うのだが、まさに「俳句極道」ここにありの感がある。颯爽たるものである。「俳句文芸」(1997年7月号)所載。(清水哲男)




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