検索エンジンで眺めてみると、俳人の姓には「ア行」の人が実に多い。なんでかなア。




1998ソスN3ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2931998

 浜近き社宅去る日のさくらかな

                           芦澤一醒

勤の季節。住み慣れた土地を離れるのは、なかなかにつらいものがある。職場を変わることよりも、生活の場が変わることのほうが数倍もしんどい。新しい土地への期待もなくはないけれど、もうこの潮騒ともお別れだし、折しも咲きはじめた桜の花も再び見ることはないだろうと、引っ越しの忙しい最中に、作者が感傷的になっている気持ちはよくわかる。サラリーマンの宿命といえばそれまでだが、しかし、この宿命は人為的なそれであるがゆえに、どこかに「理不尽」の感覚がつきまとってしまう。妻帯者ならば、なおさらだろう。セコい話になるが、私は転勤を恐れて、全国にネットを張っている会社には初手から入ろうとしなかった。そして、その考えは正解だった。……のだが、はじめて入った東京にしかオフィスのない理想の会社が、あえなく潰れてしまったのだから、正解はすぐに誤解となった。やっと次に入った会社も倒産の憂き目を見たし、いまではもう、この句の作者をむしろ羨ましいとさえ思う心境も、半分くらいはあるのである。俳誌「百鳥」(1997年7月号)所載。(清水哲男)


March 2831998

 出し穴を離れずにゐる地虫かな

                           粟津松彩子

阪から出ている「俳句文芸」というユニークな雑誌があって(残念ながら直接購読制なので、書店にはない)、ここに延々と連載されているのが「私の俳句人生」という、この句の作者への聞き書きだ(聞き手は、福本めぐみ)。それによると、揚句は作者が二十歳にしてはじめて「ホトトギス」の選句集に入った記念すべき作品である。句意は明瞭だから、解説の要はないだろう。二十歳の若者にしては、老成しすぎたような感覚にいささかの不満は残るけれど……。ところで、この連載の面白さは、松彩子の抜群の記憶力にある。その一端をお裾分けしておこう。「私は昭和五年から、ずっとホトトギス関係の句会には出席していたけど、その時分の句会費というと二十銭やった。うどん一杯、五銭の頃や、映画の一番高い大阪の松竹座が五十銭。僕は他には何にも使わないんやけど、月に何回かの句会と、たまの映画で、小遣はいつも使い果たしていたな。……」といった具合だ。松彩子は、今年で八十六歳。尊敬の念をこめて言うのだが、まさに「俳句極道」ここにありの感がある。颯爽たるものである。「俳句文芸」(1997年7月号)所載。(清水哲男)


March 2731998

 花は莟嫁は子のない詠哉

                           井原西鶴

は莟(つぼみ)がよいという。そういう美意識の持ち主は、とくにこの国には多いようだ。それはそれで一向に構わないのだが、西鶴という人は、ただ自然美を提出するだけでは物足りなかった。そこに人間臭さを嗅ぎとらないと、気持ちの収まりがつかなかった。つまり、花は莟のうちがよいように、人妻もまだ子供を生まないうちの詠(ながめ)が一番いいんだよね、と言っている。なんのことはない、花の莟は刺身のツマにされているのだ。俗世間に執着するのが、彼の文芸である。この句は、有名な千六百句独吟中の一句。一日一夜のうちにどれだけの句数を詠みうるかという、量的な高峰を目指したところにも大いに俗がある。そして、なにしろ即吟即詠だけに、格好などつけていられない状況での句づくりだから、作者の本音がすべて出てしまっている面白さがある。1677年(延宝五年)5月25日、大阪生玉本覚寺には数百人の人々が詰めかけたという。俳句を聞くためにこれだけの人出、ちょっとしたロックバンドなみの人気だった。(清水哲男)




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