井の頭自然文化園に「ヤマドリ」の5亜種が勢揃い。世界ではじめて。春休みに、ぜひ。




1998ソスN3ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2631998

 脇甘き鳥の音あり春の闇

                           三橋敏雄

撲などで使う「脇が甘い」という言葉。「脇が甘い」と、相手に得意の差し手を許してしまう。要するに、守りに弱いということであり、緊張感を欠く状態を指している。月のないおぼろに暗い春の夜のひととき、本来の用心深さを忘れたような鳥の動く音が、どこからか聞こえてきたというのである。いや、実際に聞こえてきたのではないだろう。そんな感じがするほどに、生きとし生けるものがみな、甘やかな春の闇のなかで半ば陶然としている様子を象徴させた句だ。作者は、このときひとり静かに盃を手にしていたのかもしれない。となれば、いちばん「脇の甘い」のは作者自身というわけだが、この想像は、まあ私のような呑み助だけの深読みとしておこう。『鷓鴣』(1979)所収。(ところで、句集名を読めますか。正解は「シャコ」、キジ科の鳥の名前です。私は辞書を引きました)。(清水哲男)


March 2531998

 風吹かず桃と蒸されて桃は八重

                           細見綾子

あ、とてもかなわないな。文句なしだな。そう思う句にときどき出会う。俳句好きの至福の瞬間である。揚句もそのひとつで、なんといっても「蒸されて」という比喩の的確さには、まいってしまう。梅でも桜でもない「桃の花」の臨場感とは、こういうものである。めずらしく風のそよろとも吹かない春の日、桃の傍らに佇む若い作者の上気した顔が、目に見えるようだ。作者は、桃の花の美しさを、「蒸されて」と、いわば肌の感覚で見事に描いてみせている。花を愛でるというよりも、花に圧倒されている自分を、つつましくも上品にさりげなく、みずからの若さの賛歌に切り替えている技術が素晴らしい。桃の花も八重ならば、作者の若々しさも、いま八重咲きのなかにある。『桃は八重』所収。(清水哲男)


March 2431998

 春の夜の汝が呱々の聲いまも新た

                           中村草田男

月は別れの季節でもある。別れていく気持ちはさまざまだが、相手の人生行路どころか、自分のそれさえ定かではないところに、感傷的にならざるをえない大きな根拠がある。「じゃあ、またね」と軽く手を振って別れ、一生会わずじまいになる人もいる。この句は「末弟の門出」連作四句のうちの最初の一句。1943年(昭和18年)、戦時中の作品だ。すなわち、句は末弟の応召に際して詠まれているのであって、今生の惜別を覚悟したものである。末弟とは、作者とは二十一歳も離れた双子の兄弟なので、当然、作者は彼らの生誕の時の様子は覚えているというわけだ。でも、逆にいえば兄弟とはいうものの、実感的には親戚の子くらいの意識だったかもしれない。いつまでも子供だと思っていた末弟たちが、もう兵隊に行く年齢になったのかという感慨が、なんだか嘘のようにも思え、かつての春の夜のおぼろな気分に溶けていく……。決して上手な句ではないけれど、なべて別れの抒情とはこのようなものだろう。それにつけても、こんな理不尽な別れがなくなった時代に、偶然にも生を得た私たちとしては、月並みな言い方だが、その幸福を思わないわけにはいかないのである。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)




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