相撲人気衰退のなか、水戸泉と同門の闘牙(十両)に注目。名前も面構えもいいゾ。




1998ソスN3ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1831998

 毎年よ彼岸の入に寒いのは

                           正岡子規

の句ができた明治二十六年(1893)の子規は二十五歳で、抹消句を含めると、なんと四千八百十二句も詠んでいる。日本新聞社に入社したころで、創作欲極めて旺盛だった。ところで、この句の前書には「母上の詞自ら句になりて」とある。つまり、母親との日常的な会話をそのまま五七五にしたというわけだ。当時の子規は芭蕉の神格化に強く異議をとなえていたこともあり、あえてこのような「床の間には飾れない」句を提出してみせたのだろう。母の名は八重。子規の妹律によれば、彼女は「何事にも驚かない、泰然自若とした人」だったという。子規臨終のときの八重について、碧桐洞はこう語っている。粟津則雄『正岡子規』(講談社文芸文庫)より、孫引きしておく。「静かに枕元へにじりよられたをばさんは、さも思ひきつてといふやうな表情で、左り向きにぐつたり傾いてゐる肩を起しにかゝつて『サァ、もう一遍痛いというてお見』可なり強い調子で言はれた。何だかギョッと水を浴びたやうな気がした。をばさんの眼からは、ポタポタ雫が落ちてゐた」(『子規の回想』)。(清水哲男)


March 1731998

 目刺焼くラジオが喋る皆ひとごと

                           波多野爽波

のようなラジオマンからすれば、句の中身は「ひとごと」じゃない(笑)。それはともかく、ラジオをつけっぱなしにして目刺しを焼いている作者は、少々ムシの居所が悪いと見た。どうせラジオは「ひとごと」ばかり喋(しゃべ)っているのだから、自分には関係はないのだから、いま大事なのは「ひとごと」じゃない目刺しのほうである。こちらに集中しなければ……。と思いつつも、少しはまたラジオを聞いてしまう。そしてまた「ひとごと」放送に腹を立て、またまた目刺しに集中する。そのうちに、しかし目刺しもラジオも「皆ひとごと」に思えてきてしまう。そんな図だろうか。目刺しは、あれで焼き方が難しい。黒焦げになったり生焼きになったりするから、これはもうしょっちゅう焼いている酒場のおばさんなどにはかなわないのである。ラジオをつけていてもいなくても、うまく焼けないので苛々する。そこで「みんなラジオが悪いのよ」と言いたくもなる作者の気持ちは、わからぬでもない。いや、よくわかる。ところで「ひとごと」は漢字で「他人事」と書く。最近のラジオやテレビでは、これを平気で「たにんごと」と読むアナウンサーやタレントがいるが、あれは何とかならないものか。「ひとごと」ながら、恥ずかしいかぎりである。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


March 1631998

 緑なす松や金欲し命欲し

                           石橋秀野

は常緑樹であるが、花の後で蕊が長くのび、若々しい新緑の芽を吹き出す。生命の勢いを感じさせられる。そんな松の様子を、俳句では「若緑」と言ってきた。この季語は「松」に限定されているのだ。ところで、この句をポンと見せられた読者は、何を感じ取るだろうか。金も欲しいし、命もほしい。……だなんて、ずいぶんとムシのいい作品だと思うのが普通かもしれない。だが、実は作者が幼な子を抱えて余命いくばくもない主婦だと知れば、おのずから感想は異なってくるはずである。人生の悲しみ、ここに極まれりと感じるだろう。どちらにでも受け取れる句だ。俳句には、作者の人生がからみつく。句が独立したテキストとして立つというのではなく、人生や時代背景の大きなテキストのフラグメントとして機能する。このとき、俳句は芸術なのだろうか。そう問題提起したのが桑原武夫であったし、いわゆる現代詩の成立する根拠の一つともなっている。実はこの句は、死の予感のなかで詠まれたものだ。芸術であろうがなかろうが、作者は発語せざるを得なかったのである。それが「俳句」だ。石橋秀野は山本健吉夫人だった。彼女の生涯については、上野さち子『女性俳句の世界』(岩波新書)に簡潔的確に描かれている。『桜濃く』(1949)所収。(清水哲男)




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