「些細なことから人を刺す子供」という識者。子供だったことのないような口ぶりだ。




1998ソスN3ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1131998

 朧夜の四十というはさびしかり

                           黒田杏子

齢を詠みこんだ春の句で有名なのは、なんといっても石田波郷の「初蝶やわが三十の袖袂」だろう。三十歳、颯爽の気合いが込められている名句だ。ひるがえってこの句では、もはや若くはないし、さりとて老年でもない四十歳という年齢をひとり噛みしめている。朧夜(朧月夜の略)はまま人を感傷的にさせるので、作者は「さびし」と呟いているが、その寂しさはおぼろにかすんだ春の月のように甘く切ないのである。きりきりと揉み込むような寂しさではなく、むしろ男から見れば色っぽいそれに写る。昔の文部省唱歌の文句ではないけれど、女性の四十歳は「さながらかすめる」年齢なのであり、私の観察によれば、やがてこの寂しい霞が晴れたとき、再び女性は颯爽と歩きはじめるのである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)


March 1031998

 橋姫やありのとわたりのひるさがり

                           夏石番矢

説によると「橋姫」は橋を守る女神であり、非常に嫉妬深いと伝えられている。そして、蟻が一列の細い筋になって進むことを「ありのとわたり」と言うが、転じて会陰部を指すこともある。……というわけで、この句はいろいろに解釈でき、それはそれで構わないというのが作者の意図だろう。有季定型句に慣らされた目には、これが「俳句」なのかと写るはずだが、好き嫌いは別にして、これも「俳句」なのだと私は思う。正岡子規が俳諧連句から冒頭の「発句」だけを独立させて「俳句」にしようと言い出したとき、べつに子規路線はこのような句の登場を禁じてはいなかった。いや、子規の思惑がどうであれ、吉本隆明が「俳句は日本文学の家庭内暴力みたいだ」と言ったように、俳句は和歌と違って、いまだに言語的な荒々しさ(冒険性)をそなえた表現様式だと思う。何でもありの混沌のなかにあるのだから、作者は当然のことに苦しいだろうが、読み手としてはこんなに楽しくてスリリングなジャンルが他にあるとは思えないほどだ。『人体オペラ』(1990)所収。(清水哲男)


March 0931998

 チューリップ買うて五分の遅刻して

                           岡田順子

ぎ足の出勤途中に、早咲きのチューリップが売っていた。とっさに職場に飾りたい気持ちが起きて、買う手間を費やしているうちに、遅刻してしまった。五分の遅刻が責められる職場なのだろう。遅刻の言い訳はできないが、買ってきたチューリップはやはり美しい。同僚たちも口には出さないけれど、気持ちがなごんでいるようだ。遅刻しても、買ってきた甲斐はあったのである。才気煥発という作品ではないが、最近の私は、むしろこういう句に魅力を覚えるようになってきた。雑誌「俳句」(角川書店・1998年3月号)の通巻600号記念特別座談会での黒田杏子の発言。「俳句って自分以上にまとまっちゃうところがある……」ところを極力避けて通っていこうとするならば、これも一つの意志的な書き方だと思いたい。絵の世界では、とっくに「ヘタウマ」の試みもあったことだし……。同じ作者に「すべりこむ電車はみどり日脚伸ぶ」などがある。「俳句文芸」(天満書房・1998年3月号)所載。(清水哲男)




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