次回余白句会の兼題。「櫻」「四月馬鹿」など。傑作があったら紹介しましょう。




1998ソスN3ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0731998

 日のたゆたひ湯の如き家や木々芽ぐむ

                           富田木歩

正十二(1923)年、木歩二十六歳の句。前書に「新居」とある。場所は東京府本所区向島須崎町十六番地。隅田川に面した町だ。「湯のごとき家」とは珍しい表現だが、暖房もままならなかった時代に、春を迎えた喜びがストレートに伝わってくる。ましてや、新居である。作者は、とてもはりきっている。生涯歩くことのなかった木歩には、このようにのびやかで明るい句も多い。若くして数々の苦難にあい、それに濾過された晴朗な心の産物なのであろう。しかし、この句を詠んだ半年後に関東大震災が起き、木歩は隅田川の辺で非業の死を遂げることになる。人の運命はわからない。この句は『すみだ川の俳人・木歩大全集』(1989)という本に収められている。実は、本書はこの世にたった二冊しかないという希覯本だ。畏友・松本哉があたうかぎりの資料を調べワープロを打ち、布装の立派な本にして恵投してくれたものである。彼とはじめて木歩について語り合ってから、三十年の月日が流れた。(清水哲男)


March 0631998

 菜屑捨てしそこより春の雪腐る

                           寺田京子

治体によるゴミの収集がなかった時代には、裏庭などに小さな穴を掘って、句のように無造作に捨てていた。春の雪は溶けやすいから、ばさっと菜屑を捨てると、すぐにその周辺が溶けて、少々汚い感じになってしまう。そんな情景を、作者は「雪が腐る」と表現した。腐るのは菜屑であって雪が腐るわけもないが、一瞬の実感としては納得できる。たしかに、いかにも「雪が腐る」ような感じがする。言いえて妙だ。ところで、このように燃えないゴミ(現代的定義とは大違いだが)は穴に捨て、紙などの燃えるゴミは庭の隅で燃やしていたころに、誰が今日のゴミ問題を予測できただろうか。ひどい世の中を歎くだけでは何もはじまらないが、菜屑は土に返すべし。菜屑くらいは勢いよくばさっと捨ててみたいものだ。来たるべき世紀の我が国は、この句が理解できない人たちでいっぱいになるだろう。もう二度と、このような情景が詠まれる時代は訪れないだろう。(清水哲男)


March 0531998

 春よ春八百屋の電子計算機

                           池田澄子

の場合の「電子計算機」はパソコンではなく、「金銭登録機」のことだろう。それまでは店先に吊るした篭に売上金を放り込んでいた八百屋が、ある日突然近代的な「金銭登録機」を導入した。親父さんは嬉しそうに、しかし照れ臭そうに、慣れない手付きで扱っている。「これからは古い考えじゃ駄目だ」くらいのことを、作者に言ったかもしれない。そんな機械を導入するほどはやっている店とも思えないが、時は春なんだから「ま、いいじゃないか」と、作者もいい気分になっている。句の季節はいつでもいいようなものだが、やはり「春」でないと、この句は成立しない。「春」はこんなふうに、理屈抜きで人を浮き浮きさせる季節だからだ。だが、もう一方で「春愁」という精神状態になることもある。ややこしくも厄介な季節なのである。同じ作者に「頭痛しと頭を叩く音や春」がある。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)




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